2013年12月27日金曜日

第五幕 ファミリー・ツリー 

「ファミリー・ツリー」は2011年公開のアメリカ映画。
アレクサンダー・ペイン監督、ジョージ・クルーニー主演。

原題は「The Descendants」=子孫。
主人公の中年男、マット(クルーニー)がハワイで先祖から受けついできた美しい土地を、観光開発から守る-というラストから、このネーミングになったのでしょう。

とはいえ、映画の主題となっているのは血の結びつきではありません。
土地の保全は副次的な結果であって、そこにいたるまでの一家のドタバタとドロドロがコミカルでシニカルです。美しいハワイでの麗しい家族愛、という期待は見事に裏切られることになります。

事の発端は、主人公の妻のサーフィン中の事故でした。頭部を強打した妻は植物状態になってしまうのです。
この悲しみに追い討ちをかけるのが妻の不倫。しかも友人や娘までも感づいていたという公然の秘密だったのです。主人公は一人だけ蚊帳の外。「今ごろ気づいたの」と皆あきれ。顔。なんだかいたたまれない気持ちになります。

寝たきりの妻を問い詰めたところでむなしいだけ。
主人公は娘たちとともに、間男を突き止めようと立ち上がります。相手は地元の不動産業者でした。客を装って連絡を取ると、カウアイ島で家族とのんびりバカンスを過ごしているという。いきり立って間男の別荘に乗り込みます。

ところが間男をつるし上げるつもりが、足をすくわれてしまいます。
妻との関係は「ただの遊び」。しかも関係を求めてきたのは妻のほうだという。この世での別れが近づいているというのに、妻への信頼は崩れ去っていく一方。間男の前で、無様な自分をさらしたでかでした。

妻の入院先を言い残して、間男の前から去った主人公。
ところが病室に現れたのは彼の妻だったのです。彼女は取り乱し始めます。目の前で眠っている女のせいで、彼女もまた夫を奪われたのです。
本来なら主人公こそ、怒りをむき出しにしたいところ。お株を奪われた形の彼は、娘たちと黙って見守ります。妻は無言でこの世を去っていきます。家族の思い出を引き裂きながら。

そうして主人公がとった行動が、先祖伝来の美しい土地を守ることでした。
ここで彼は親族会議での決定を反故にするほどの決意をみせます。そこにいたるまでの心の動きは、はっきりと描かれていません。大金をふいにした親戚はしらけきってしまいます。「一人だけいい格好しやがって」といわんばかりに。

家族の愛情も、親族の結びつきもただの幻想。
The Descendants」という原題も皮肉が利いています。
いつの時代も変わることなく美しいのはハワイの自然だけなのです。

2013年12月16日月曜日

第四幕 かぐや姫の物語 

「かぐや姫の物語」は、2013年公開のスタジオジブリのアニメ映画。高畑勲監督。
ご存知のように「竹取物語」を題材にしています。

同じくスタジオジブリ作品の「風立ちぬ」に続く大作の公開となりました。
製作期間8年、製作費50億円という一大プロジェクトですが、「風立ちぬ」とは対照的に、絵はいたってシンプル。絵が動くようなイメージが基調となっており、アニメーターの描いた手書き風のキャラクターと背景となっています。



映画のストーリーは、高畑監督が竹取物語を独自解釈して発展させたもの。

とはいえ、
竹林の中で赤ん坊発見→美しい姫に育って上京→貴公子からの求婚と拒絶→月に帰
という大まかな筋は踏襲されています。

このジブリ版「竹取物語」で、新たなに加わった要素はかぐや姫に幼友達がいた、という点。
木の器を作りながら農村を点々とする木地師の子供たちです。その木地師の若者、捨丸に恋心を抱いているという設定。

かたや、かぐや姫を育て上げた翁(おじいさん)。
彼はかぐや姫を立派な姫君にして、やんごとなき家柄に嫁がせることを天命と受け取ります。

しかしそれは、かぐや姫の意思に反することでした。彼女は幼友達との田舎暮らしを捨てたくなかったのです。

都に出たかぐや姫は花嫁修業として、おはぐろなどの公家風の化粧を施されますが、拒絶。
お琴の稽古もしない。屋敷の中に小さな畑を作って、虫と戯れているほうが彼女にとっては自然な楽しみでした。
かぐや姫にとっては、嫁ぎ先でお飾りになるのは、自分の意思を捨てること、自由の束縛にほかなりません。

友人も、結婚相手も自分で選びたい。
ジブリ版「竹取物語」では、かぐや姫を現代っ子に置き換えているようです。
生き方を誰にも縛られたくないのです。

原作と同じく、かぐや姫が求婚してきた貴公子に無理難題をふっかけて追い払うのはそのため。
天皇までも彼女に興味を示し始めますが、かぐや姫は相手にしません。

孤独な戦いに疲れたかぐや姫は、かつて暮らした山里へ向かいます。
そこでなんと、捨丸とばったり再会します。ところが彼にはすでに家族がいました。
かぐや姫が地球で見た夢はついえました。

本作品のサブタイトルは「姫が犯した罪と罰」となっています。月の住人であるかぐや姫が、地球で人間的な幸せを夢見たことが「罪」だったのでしょうか。
その夢が果てたところで、月から華やかな一団がやってきます
翁たちの抵抗もむなしく、月に連れ戻されるかぐや姫。彼女の地球での記憶もすべて消去されてしまいます。

50億円の製作費を費やした「かぐや姫の物語」も、興行収入は22億円と苦戦したようです。
なじみの深い竹取物語を、あっと驚くように料理するのはやはり難しかったのでしょうか。
かぐや姫に現代っ子的な精神を吹き込み、幼友達を登場させたものの、ストーリーとしては「やっぱり」という展開と受け取られたのかもしれません。

それでも結末が分かっているとはいえ、かぐや姫が泣く泣く月に戻っていくシーンは感動でした。



2013年12月14日土曜日

第三幕 風立ちぬ 宮崎駿

風立ちぬ 宮崎駿監督 2013年



あらすじ

宮崎監督の遺作となるかもしれない「風立ちぬ」。数々の名作を生んだ宮崎アニメのうちでも、実在の人物をモデルとした異色の作品です。またタイトルも堀辰雄の同名小説からとられています。

主人公の堀越二郎は航空技術者として、戦時中に数々の戦闘機を設計した人物。映画は彼の航空機にかける情熱と、ヒロインとの悲恋をからめて描きます。

実在の堀越二郎は1903年、群馬県藤岡市に生まれ。東京帝国大工学部航空学科を首席で卒業。減殺の三菱重工の前身である三菱内燃機製造に入社します。軍部の要請に応じて、数々の戦闘機に携わりますが、その名を後世に残すことになったのが零式艦上戦闘機(ゼロ戦)の設計でした。
戦後は三菱重工の参与、東京大学宇宙航空研究所講師、防衛大学校教授などを歴任。1982年1月11日、78歳でこの世を去りました。

一方、堀辰雄の小説「風立ちぬ」は作者の代表作。重い結核に冒された婚約者と「私」が、死の影におびえながらも、美しい高原で、残された時間をともに生きるといった物語。映画「風立ちぬ」のヒロイン「菜穂子」とも重なります。

宮崎版「風立ちぬ」は、堀越二郎の人生と、堀辰雄の「風立ちぬ」のヒロインを織り交ぜられています。


ヒットの理由

①作品のきめ細かさ
アニメーションの技術力にかんしては、あらためていうまでもないかもしれません。妥協を許さない、映像表現こそが、アニメ映画の生命線。手抜きがあれば、映画は説得力を失ってしまいます。

②ストーリー
航空機の設計に一切の妥協を許さない堀越二郎。そこにはアニメーターとしての宮崎監督の生き方が投影されているのかもしれません。

堀越二郎は至上の戦闘機をつくることにありたっけの情熱を注ぎ込みます。妻が重い結核におかされていようとも、仕事の手を休めることはありません。

そしてゼロ戦の完成をみます。
ところが、このゼロ戦の完成によってなにをえたか。代償のほうが大きかったのではないか。戦争によっておびただしい人の命が犠牲となり、国土は荒廃。そして愛する妻も、二郎のもとを去ってしまいます。

宮崎監督はおそらく二郎の生き様と戦争に、現代日本の姿を重ねたのだと思います。
それはわれわれの3・11、東日本大震災の記憶と重なるとはいえないでしょうか。
犠牲者は1万5000人にのぼり、いまなお多くの人が避難生活を強いられています。
たしかに天災は人の力では防げません。その一方、福島第一原発事故はわれわれが育て上げたテクノロジーが招いたともいえます。二郎がつくりあげた夢の戦闘機が、多くの人の命を奪ったのと同じように。

二郎はイノセントな存在です。人を殺めようと思って戦闘機を設計したのではありません。
航空技術が多くの人を幸福にすると信じて、飛行機作りに没頭する。結果的に、彼が善意で情熱を傾けたことが、多くの人を不幸に陥らせてしまいました。

一方の菜穂子も純真無垢なヒロインです。本当は二郎からもっと愛情を注いでほしい。
ところが彼の情熱の向かうさきは雲の向こう。そんな夫の足手まといにならないように、また病で衰えゆく姿を見られないように、人知れず姿を消してしまいます。そこには利己心のかけらもありません。

二人の生き方は理想形でもあり、救いともなる一方で、自らを省みざるをえません。
まず、利己心を捨てて愛するもののために尽くすことの困難さがひとつ。
そして、彼らのような純真で情熱と才気にあふれた人たちを、戦争という邪悪な目的に従わせようとすると、想定外の不幸を招いてしまうということ。

軍部=悪、国民=被害者という単純な決めつけが、どこまで許されるのかという問題点はありましょう。一方で、「風立ちぬ」がさまざまな思考を呼びさまし、議論をもたらす作品であることも事実だと思います。

2013年12月11日水曜日

第二幕 インビクタス/負けざる者たち 

「インビクタス/負けざる者たち」は2009年公開のアメリカ映画。クリント・イーストウッド監督。 

インビクタスとは「屈服しない」という意味のラテン語だそう。
映画の舞台は南アフリカ。1994年に開催されたラグビーワールドカップ南アフリカ大会での南アフリカ代表チーム「スプリングボクス」の戦いぶりと、同国大統領ネルソン。マンデラの生き様が主題となっています。

マンデラを演じるのはモーガン・フリーマン。
マンデラはご存知の通り、反アパルトヘイト闘争のため長年にわたって投獄されていた政治家です。彼は新生南アフリカの大統領として、自国開催のワールドカップを、国民統合のための大会と位置づけていました。

ところが、「スプリングボクス」は白人主体のチームで、黒人選手は一人だけしかいませんでした。ラグビーは、もともと白人のスポーツ。国民の大多数をしめる黒人には不人気だったのです。

マンデラの側近たちは、「スプリングボクス」の愛称とユニフォームの変更を要求します。
しかし、マンデラはこれを拒みます。マンデラが目指したのはアパルトヘイト廃絶であって、白人への報復ではなかったのです。このような要求を聞き入れていては、黒人と白人の対立の芽を取り除くことはできないのです。

一方で、スプリングボクスは長い間、不振にあえいえでいました。それに加えて、黒人層からは目の敵にされています。ワールドカップが迫っているというのに選手たちの士気もあがりません。

マンデラはスプリングボクスの主将フランソワ・ピナール(マット・デイモン)を茶会に招いて励まします。
これを意気に感じたピナールはチームをまとめ上げるため奮闘。スプリングボクスは下馬評を覆す快進撃をみせ、決勝進出を果たします。

ファイナルの相手は世界最強のニュージーランド代表オールブラックス。そして奇跡的な優勝を遂げるのです。

インビクタス/負けざる者たち


先日、惜しまれつつ世を去ったマンデラ。
映画のクライマックスはラグビー南アフリカ代表チームの奇跡的な優勝なのですが、それを陰で支えたマンデラの偉大さにあらためて気づかされます。

フリーマンふんするマンデラは、次のような詩の一遍をつぶやいています。

「私が我が運命の支配者 
私が我が魂の指揮官」

投獄されている間、マンデラの支えになった詩だそうです。

マンデラには揺るがない信念がありました。
少数派である白人の支配を終わらせるだけでなく、黒人との融和を図ること。その象徴がラグビーでした。うがった見方をすれば、スポーツの政治利用とも取れますが、南アフリカは白人と黒人の対立がいつ先鋭化するとも限らない不安定な状況。手段を選んでいられません。

マンデラが「スプリングボクス」の愛称を求められても許さなかったのは、揺るぎなき魂を持っていたからこそ。
自らの運命と良心を支配するのは自分。周囲に影響されて、あやまった判断を下してはならない-。
マンデラはその意図をはっきりとはいいません。 それでもその行動に彼の信念はにじみ出ています。

一方、スプリングボクスの主将ピナールは、もう一人のマンデラともよぶべきリーダー。
マンデラと同じように仲間をまとめ上げなければならないというのに、チームメートの士気は上がりません。それどころか、黒人からは目の敵にさえされています。そして、地元開催のワールドカップが迫ってくるのです。

彼はマンデラとは対照的に、重圧に負けそうになっていました。

そんなピナールを奮い立たせたのがマンデラでした。
マンデラは代表チームの戦いぶりに、口を挟むようなことはしませんでした。ただ無言で励ますのです。
ピナールは揺れ動く南アフリカ国民の象徴。そして代表チームはこの国の混沌を表しているようにも見えます。

南アフリカはアパルトヘイト撤廃後も、数多くの問題を抱えたままです。
失業率と犯罪率は高止まりしたまま。また黒人を要職に付けたことで、それに押し出される形で職を失う白人も増えているそう。アパルトヘイト時代に教育を受けることができなかった世代も多く、教育水準も低いまま。 これらの問題は、過去のゆがんだ政策の負の遺産ともいえます。

現実は映画と違って、終わりがありません。
この国に必要なのは、第二第三のマンデラとスプリングボクスなのでしょう。





2013年12月10日火曜日

第一幕 リンカーン  

リンカーン 

ダニエル・デイ=ルイス主演、スティーブン・スピルバーグ監督、2012年公開

あらすじ

南北戦争時代のアメリカ。戦争は4年目を迎え、戦況はリンカーン(ダニエル・デイ=ルイス)率いる北軍に有利となっていました。

ところがリンカーンは、奴隷制度を廃止する合衆国憲法修正13条を下院で批准させるまでは戦争を終わらせまいとしました。南北戦争中に「奴隷解放宣言」が発布されていたものの、この宣言によって実際に開放される奴隷はわずかだったからです。宣言は南部連合(南軍)支配地域の奴隷解放を命じたもので、連邦側(北軍)は対象外でした。

こうしてリンカーンは国務長官ウィリアム・スワード(デヴィッド・ストラザーン)らと共に憲法修正に乗り出します。奴隷解放を政治目標に掲げていたのは共和党でしたが、リンカーンらは共和党の提案に賛成するよう民主党議員の切り崩しを図ることになります。映画で描かれる議会工作はかなり露骨。次の改選で当選があやぶまれそうな民主党議員のもとにロビーストたちを走らせます。そして落選しても生活ができるよう職をあっせんするのです。

しだいに民主党側にも、リンカーンらの提案に賛成する議員がちらほらと出てきますが、それでも批准にはまだまだ票数が足りません。そうこうしているうちに、リンカーン政権にとんでもない事態が持ち上がります。講和の使者が南部連合側からワシントンにやってきたのです。さきほどの奴隷解放宣言は戦時中の一時的な立法措置。南北戦争が終結すると効力を失ってしまいます。アメリカ国民の誰しもが、一刻も早い戦争終結を望んでいる。ところが、リンカーンはこの使者の存在を秘密にしておくよう側近に指示します。

この秘密工作が露見して、さあ大変。議会が、国中が騒然となる中で憲法修正13条批准の採択が行われることになるのです。


Abraham Lincoln head on shoulders photo portrait.jpg

ヒットのわけ

アメリカ国民の間でもっとも人気のある大統領、リンカーン。そのリンカーンを取り上げるのだから、ヒットは約束されていたといえるのかもしれません。それでも多様な顔をもつリンカーンを、わずか2時間余りの作品に凝縮するのは難しかったのでしょう。

奴隷解放の父リンカーンはだたの理想家だったわけではありません。奴隷について、次のようなことも述べています。

「この戦争における私の至上の目的は、連邦を救うことにあります。奴隷制度を救うことにも、亡ぼすことにもありません。もし奴隷は一人も自由にせずに連邦を救うことができるものならば、私はそうするでしょう。そしてもしすべての奴隷を自由にすることによって連邦が救えるならば、私はそうするでしょう」

リンカーンは奴隷制度については否定的でも肯定的でもなかった。奴隷に依存する南部連合の力をそぎたかった-。などいったことも指摘されています。映画のラストで共和党の奴隷解放の急進派であったタデウス・スティーブンス議員が黒人のメイドとベッドをともにするシーンが登場しますが、それがリンカーンの奴隷に対するスタンスをわずかに暗示しているのではないでしょうか。

スピルバーグは憲法修正13条の採択をめぐる議会での駆け引きと、家族関係に焦点を絞ったのでしょう。リンカーンの妻メアリー(サリー・フィールド)はホワイトハウスでの生活に精神を病み、息子ロバート(ジョゼフ・ゴードン=レヴィット)はリンカーンの反対を押し切って南北戦争に従軍するといってききません。そこには一人の家庭人としてのリンカーンの苦悩が描かれている…といってはあまりに陳腐で、ありきたりな作品に聞こえてしまいますが。奴隷制度と南北戦争を真正面から描いていたら、きっと2時間余りでは描ききれなかったことでしょう。

歴史の深部に踏み込まず、リンカーンのイメージも崩すことがない。
映画の設定としては賢明。ヒットメーカー、スピルバーグこそなしえたといえるのかもしれません。

最後に映画「リンカーン」の踏み込み不足を指摘した映画評(21世紀に入っても憲法修正13条に批准していなかった州があったというコメントも驚きでした)http://www.newsweekjapan.jp/reizei/2013/02/post-533.php
をご紹介して、本ブログの第一幕を閉じたいと思います。