2014年10月31日金曜日

第二十八幕 42~世界を変えた男~

「42~世界を変えた男~」は2013年公開のアメリカ映画。ブライアン・ヘルゲランド監督、チャドウィック・ボーズマン主演。

アフリカ系アメリカ人として初のメジャーリーガーとなったジャッキー・ロビンソン(チャドウィック・ボーズマン)の奮闘と苦悩を描く(ここでいう「初」とは20世紀以降のメジャーリーグを指す)。タイトルの「42」は、ブルックリンドジャースで着けていたロビンソンの背番号。彼の功績をたたえて、この背番号はメジャーリーグ全球団で永久欠番となっています。

ロビンソンがメジャーリーガーとしての歩み始めたのは第二次大戦後のことでした。
彼の祖父はアフリカから連れてこられたそうです。ロビンソンの父親は蒸発。苦学の末大学を卒業し、第二次大戦のため軍務につきます。


大戦中は彼と同じように、多くのアフリカ系アメリカ人が国のために銃を取りました。
ところが戦争後に待っていたのは、白人による厳しい差別。公共の場で白人との同席は許されません。当時のメジャーリーグは白人のみ。黒人がプレーするなどもってのほかだったのです。
世間の荒波に耐えて、メジャーリーガーとなったロビンソンはもちろん、道を開いたドジャースと球団社長ブランチ・リッキー(ハリソン・フォード)も立派でした。

ロビンソンが戦ったのは対戦相手だけではありませんでした。
まず白人のチームメートが彼の存在を受け入れようとしません。社長命令でナインは不承不承、ロビンソンとのプレーを受け入れますが、今度は対戦相手と観客が黙っていません。敵軍のベンチからは意地汚いやじ。スタンドからはブーイングの嵐。

次々と襲い掛かる屈辱に耐えてまでプレーしなければならないのか。
ロビンソンは荒れ狂うか、さもなくば逃げ出そうとします。苦悩する若者を励まそうとするリッキーの姿が印象的。「我慢する勇気を持て」「歴史を変えろ」と。

リッキーがロビンソンを受け入れた背景には、もちろん商業的な動機もあったようです。
アフリカ系アメリカ人からの収入が見込めるという。たとえそうだったとしても、利益よりも障害がまさっていました。差別はグランドだけにとどまらず、場外ではドジャース球団の宿泊拒否が起きていたのですから。


そうした差別に立ち向かうロビンソンに手を差し伸べようとするチームメートの姿も感動的。
下手をすればポジションを失ってしまいかねないというのに、見えすいたデッドボールやラフプレーを受ければ自分のことのように相手に食ってかかります。

もちろん、それだけでは差別的な言動がグラウンドからなくなることはありませんでした。
いやそれだからこそ、人種差別の過ちと、野球というチームスポーツのよさを再発見できるのです。

この「42」はハリソン・フォード以外は若手俳優ばかり。
それでもチャドウィック・ボーズマンの演技はけれんみがないだけでなく、きっと運動神経もよいのでしょう。古き時代の物語とはいえ、映画に登場する野球選手が下手そうに見えない。プレーするチャドウィックがスクリーンから飛び出してきそう。そうして生み出されるリアリティも、この映画に厚みを与えています。

この映画は野球だけでなく、アメリカの現代史にも大きく影を及ぼすテーマ。
アメリカ人にとっては歴史の暗部ともいえます。それをあえて映画化した心意気に、われわれ日本人も学ぶべきではないでしょうか。

2014年10月24日金曜日

第二十七幕 キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン

「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」は2002年公開のアメリカ映画。スティーブン・スピルバーグ監督。レオナルド・ディカプリオ、トム・ハンクス出演。

キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャンは、実在の詐欺師フランク・アバグネイル・ジュニア(ディカプリオ)の同名小説(邦訳は「世界をだました男)が題材。同種の事件に比べれば被害額はたいしたことがなかったものの、16歳という若さと大胆な手口によって、テレビでもたびたび取り上げられたそう。

映画の冒頭にも、クイズショーにディカプリオふんする出所後のフランクが登場するシーンがあります。スタジオのフランクはパイロット姿ですが、もちろん偽装です。フランクはパイロット、医師、弁護士と次々と身分を偽り続けます。そして各地で偽造小切手を切り続け、大金を持ち逃げするのです。

その姿は天才詐欺師というよりも虚言症のよう。
本人は意図していないのに嘘で身を固めてしまう。役者が演じているのですから当然かもしれませんが、驚くほどすらすらと作り話が出てくる出てくる。


フランクは犯罪に手を染める以前から、その片鱗をみせるのです。
転校先でフランス語教師になりすまし、勝手に授業をしてみせます。それだけなら可愛いものですが、その後はパイロットに成りすまし、各地へ飛び続けます。操縦の知識などまったくないにもかかわらず。見習いの飛行士として、コックピットに何食わぬ顔で同乗。そして玩具の飛行機からパンナムのステッカーをはがして張って、偽造小切手を作り続けるわけです。

捜査の手が迫っていることを知ったフランクは、すでに医師に偽りの身分をすり替えています。
もちろん、医学の知識などありません。急患の患者が病院に運ばれてきても、実際は自らより年上の若手医師たちに処置を指示するだけ。

フランクはこの病院の看護師ブレンダ(エイミー・アダムス)と結婚寸前にまでこぎつけます。
彼女の父ロジャー(マーティン・シーン)はなんと検事。並大抵の犯罪者なら逃げ出すところでしょうが、フランクは弁護士への転身の指南役としてしまうのです。この大胆さが、犯罪者ながら愛される由縁なのでしょう。

そしてブレンダとの婚約パーティ。
ここでFBIの捜査官カール(トム・ハンクス)の出番です。逮捕寸前まで迫りますが、あと一歩のところでフランクに逃げられてしまいます。「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」というのは、鬼ごっこのときの掛け声だそうですが、その言葉通り、フランクは追いかけるカールの手から華麗にすり抜けてしまいます。


二人の鬼ごっこの解決の糸口となったのは、フランクの母親ポーラ(ナタリー・バイ)。
万策尽き果てようとしていたカールは、彼女の出身地フランスのとある村に手がかりを求めます。まさにビンゴ。その村には偽造小切手を作る印刷工場があったのです。

ついに捕まったフランク。これでめでたし、めでたしといかないのが、この映画の面白いところ。
カールはフランクを更生させるため、FBIの詐欺捜査アシスタント役として採用します。
ところがフランクは、ここでも持ち前の才能を発揮。再び犯罪に走ろうとします。

結局、再び捕まってしまうのですが、彼の執念の源はどこにあったのか。
その背景には両親の離婚がありました。父(クリストファー・ウォーケン)は第二次大戦で勲功をあげた元軍人。大戦後は事業を手がけるものの失敗。軍人時代にフランスで知り合った妻に逃げられてしまいます。

フランクはすべてを失った父を喜ばせようと、パイロット、医師、弁護士と虚飾で身を包もうとします。また偽造小切手を切り続けたのも、父に融資を渋った銀行への復讐だったのかもしれません(原作は映画とは逆に、父を憎んでいたらしい)。
逮捕後、FBIから逃げ出したのも母親の新たな家庭の様子をうかがうためでした。母恋しという動機だけでなく、せめて父のことを忘れずに暮らしていてほしいという期待からだったのでしょう。ところがどっこい。そこには父親違いの妹がいたのです。

家族を失ったフランクを、親代わりのように親身に面倒を見たのが、彼を追いかけ続けたカールだったのです。




2014年10月21日火曜日

第二十六幕 ダラス・バイヤーズクラブ

「ダラス・バイヤーズクラブ」は2013年公開のアメリカ映画。ジャン=マルク・バレ監督、マシュー・マコノヒー主演。アカデミー賞主演男優賞受賞。

HIVに感染したカウボーイ、ロン・ウッドルーフ(マシュー・マコノヒー)の実話が題材。ではあるものの、HIVをテーマにした同種の映画とは、やや趣を異にしています。余命1ヶ月を宣告されたロン自身が、治療のため未承認薬を大量に密輸。その薬によって七年も延命。あまった薬はほかの患者に売りさばく「ダラス・バイヤーズクラブ」を設立してしまった。正確には薬は会員料と引き換えなのですが、もちろん非合法です。

ロンはあるときは神父に、あるときはビジネスマンに変装して、世界各国から未承認薬を大量に密輸します。はじめはメキシコ。日本やヨーロッパまで。

ロンが闘病していた1980年代当時、HIVに感染するのは同性愛者や両性愛者とみられていました。ロンをはじめ、友人たちはゲイを激しく嫌い、差別していました。その彼自身が感染してしまったのです。ロンの感染経路は、ドラッグを注射していた女性との性行為でした。それでも友人たちは離れてゆき、ロンも自身の運命を呪います。

ロンはHIV患者の救い主となろうとしたのではありません。もともとの動機は自らの延命のため。ほかの患者に未承認薬を譲ろうとしたのも、当初は商売目的。会員料を支払えない希望者には、断固として入会を認めようとはしませんでした。


「ダラス・バイヤーズクラブ」の画像2


そんな「地獄の沙汰も金次第」を地でゆくロンを変えたのは、病院で知り合ったHIV患者のレイヨン(ジャレド・レト)との出会い。ダラス・バイヤーズクラブのパートナーとなったレイヨンはトランスジェンダー。当初は彼を蔑ずんでいたロンも、しだいに友人として認めるようになります。

ところがレイヨンはHIVの進行のため亡くなってしまいます。

レイヨンのあっけない死に衝撃を受けるロン。HIVに有効な未承認薬のひとつであるとされたAZTは、副作用もあり、治験目的でしか病院で投与されていませんでした。もしも、それらの薬が処方されていれば、レイヨンはもっと長く生きられたかもしれない-。そう考えたロンは、利益を度外視して会員料の支払えないHIV患者にまで未承認薬を渡すようになります。

そしてダラス・バイヤーズクラブをつぶそうとする国を相手取って、未承認薬の使用を認めるよう裁判を起こします。判決は彼に限って、AZTの使用を許可するというもの。その主張は一部しか認められなかったとはいえ、閉ざされていたドアはわずかに開かれたのです。

ロンは同性愛を認めないマッチョ思考のカウボーイ。
自らがHIVに感染したことなど受け入れたくもなく、HIV患者への同情もありませんでした。
未承認薬の密輸も、彼自身の延命のためという利己的な動機。

レイヨンとの出会いによって、仲間のため変わりゆくロン。
そして激しい減量によってHIV患者になりきったマコノヒーとレトの怪演も見所のひとつとなっています。







2014年10月14日火曜日

第二十五幕 ラッシュ/プライドと友情


「ラッシュ/プライドと友情」は2013年のアメリカ映画。ロン・ハワード監督。

 

主人公のニキ・ラウダ(ダニエル・ブリュール)、ジェームス・ハント(クリス・ヘムズワース)はF1年間チャンピオンの座をかけて激しく争ったライバル同士。理詰めのラウダと感性のハント。対照的な二人のデッドヒートにファンやマスコミは大いにわきました。

 

ファンやマスコミにとって、レースは娯楽や関心の対象でしかありません。

一方、レーサーは死と隣り合わせで、時速350キロのマシンに生身の体をゆだねています。少しでも操作をあやまったり、車にトラブルが起きたりすれば、命を落としかねません。

 

危険との向き合い方、人生観において、ラウダとハントは対極にあります。

ラウダがリスクを最小化しようとするのにたいして、ハントはリスクを楽しもうとします。その生き方の違いのゆえに、二人は相容れることがありません。


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大雨に見舞われたドイツ・ニュルンベルクでのレース。

大会を強行すればスリップが続出することは免れません。ここでラウダは意外な行動に出ます。レース中止の提案でした。年間王者争いでトップを走っていたラウダ。結婚したばかりの彼には守るべき家族がありました。それに猛反対したのがハントでした。彼にも妻がいましたが、ひとりの女性を愛しぬくという恋愛観はもちあわせていません。

 

そしてなにより、ラウダを追いかけるハントにしてみれば、中止など受け入れようもありません。彼は居並ぶレーサーたちの面前でラウダを卑怯者となじります。

 

採決の結果、レースは強行。ラウダの悪い予感は的中します。

スリップのためコースアウトした彼はマシンもろとも炎に包まれます。瀕死の大やけどを負いながら一命を取りとめたものの、レースへの復帰は誰もがないものと思われました。愛する妻、そしてライバルのハントでさえも。

 

ところがラウダはサーキットに戻ってきます。
やけどによってその容貌は変わり果てていました。

太ももの皮膚を顔に移植し、肺にたまった膿を吸引するという過酷な治療でした。そして彼が病院にいた間、ポイント争いでトップに躍り出たのはハントでした。ほかのレーサーならともかく、彼の後塵を拝することなど我慢ならなかったのかもしれません。もしくはレーサーとしての本能だったのでしょうか。いずれにしろ、常人の理解を超えた行動であることに間違いありません。

 

復帰後の富士ドライブウェー。サーキットは再び雨に濡れます。

死のふちから舞い戻ってきたとはいえ、ラウダはラウダでした。今度はハントを追いかける立場に置かれていたものの、レースを棄権します。
一方のハントはレースを強行。悪条件のなか、攻めの走りを貫きます。
同じく雨のドイツで炎に包まれたライバルの残像、死の恐怖を振り切るような疾走は、臨場感にあふれているといえるでしょう。ハントはついに念願の年間チャンピオンの座を勝ち取ります。

 

戦い終えた、その後の二人の歩みも対照的でした。

息長く走り続けたラウダをよそに、ハントはレースからテレビ界に転進。チャンピオンとしてもてはやされた彼は、酒と女、遊びに浸って命を縮めます。四十代の若さで世を去りました。

一方のラウダはハントに敗れて王座を逃しはしたものの、人生では勝者となりました。

もはやそんな勝ち負けはどうでもよかったのかもしれません。レースが、マシンがあったからこそ二人は競い合ったのでしょう。そしてライバルがいたからこそ、命がけで戦った。

 

周囲にしてみれば、二人の激しい争いは常軌を逸しているとしかみえません。
瀕死の重傷を負いながらもレースに駆り立てられるラウダを見守るしかない、妻のマレーネ(アレクサンドラ・マリア・ララ)は、そんな第三者の視点を代表するようでもあります。

2014年10月2日木曜日

第二十四幕 アメリカン・ハッスル

「アメリカン・ハッスル」は2013年のアメリカ映画。デビッド・O・ラッセル監督。クリスチャン・ベイル主演。

副題は「奴らは生き抜くためにウソをつく-」。
そう、詐欺師を描いた映画です。冒頭から、作品に引き込まれます。
いわくありげな男女三人が「まあまあ」と、ジュラルミンケースの札束を中年男性に渡そうとする。「なんだこれは」と男性は受け取りを拒む。政治ドラマにありがちな賄賂のやりとりです。

アメリカン・ハッスルは、1970年代に実際にあったアメリカの収賄事件「アブスキャム事件」を題材にしています。とはいえ、映画はシリアスというよりはコミカルな印象。登場人物たちの風貌が奇抜なせいでしょう。



クリスチャン・ベール演じる主人公の詐欺師アービンは、下腹が突き出て薄毛の中年親父。
ヒロインで詐欺師の片腕のシドニー(エイミー・アダムス)は、胸元が大胆に開いたドレス。
そして、FBIの刑事リッチー(ブラッドレー・クーパー)はパンチパーマ。
当時流行のファッションだったとはいえ、それぞれがキャラクターを作りこんでいます。

実話が題材とはいえ、ストーリーもかなりぶっ飛んでいます。
実際の事件では、収賄によって現職の上院、下院議員7人、ニュージャージー州のカムデン市長らが逮捕されました。

実はこの収賄自体が、FBIによって仕組まれたもの。
まず、アブドゥール・エンタープライズという中東の企業をでっちあげ、政治家たちに架空の融資話を持ちかけさせる。その融資を餌にして、カムデン市で持ち上がっていたカジノ誘致の利権に群がる政治家たちを一網打尽にしてしまうという「おとり捜査」でした。

政治家側にもともと臭い材料があったとはいえ、捜査機関が犯罪を演出したようなもの。
これだけでも驚きですが、さらに驚かされるのが、捜査に詐欺師が協力していたこと。それがアービンのモデルとなったワインバーグという人物でした。「協力」といえば聞こえはいいのですが、実際には詐欺師が捜査を主導したようなものです。

ワインバーグ=アービンは、表の顔はクリーニング店の経営者。
裏では、美術品の贋作の取引をはじめ、多重債務者に架空融資を持ちかけ高額の手数料を巻き上げるという詐欺を働いていました。その悪事はFBIの知るところとなり、詐欺の片腕だったシドニーが逮捕されてしまいます。一方のアービンは逮捕をまぬかれるかわりに、刑事リッチーからおとり捜査への協力を求められるのです。

リッチーがアービンに示した免罪の条件は、身代わりの詐欺師を4人突き出すというもの。
しかし野心家のリッチーは詐欺師のような小物を逮捕するだけでは気がすみません。
ターゲットは市長と議員に格上げされます。
実話と同様、「シーク」という架空の中東の投資家をでっち上げ、政治家に融資話を持ちかけるのです。実際には、これらのシナリオはワインバークの発案だったそう。詐欺師が捜査に協力したというよりは、主導したといったほうが近いのでしょう。

詐欺師のアービンは、デブで薄毛という風貌もあいまって、どこか憎めないキャラクター。
冷血漢ではなく、政治家を陥れるわな作りに必死。はめるために近づいた市長とも親しくなってしまい、彼をだますことに良心の呵責も感じるようになります。

一方のリッチーも切れ者の刑事ではなく、どこにでもいる若者というイメージ。
こちらもパンチパーマという風貌がソフトイメージに一役買っているのでしょう。野心が異常に強い半面、危うさも同居しています。出世のためとはいえ、FBIへの要求はどんどんエスカレートしていきます。200万ドルの架空融資金をはじめ、高級ホテルをフロアごと抑えろだの、ジェット機を用意しろだの。巨額の公金支出をしぶる上司に殴りかかるという「事件」まで起こすのです。



対照的に本物かと見まがうほどの存在感は、マフィア役のロバート・デ・ニーロ。
カジノ業の表も裏も知り尽くした彼は、「シーク」と面会するなりアラビア語で語りかけます。居合わせたアービン、リッチーは凍りついてしまいます。FBIの捜査官が変装した「シーク」は、メキシコ系のアメリカ人。アラビアンとは程遠い風貌。もちろん言葉も分かりません。

さて、事件の結末やいかに。

結局、リッチーの計画は筋書き通りにはなりません。それどころか、アービンに一杯食わされることになります。そのアービンも市長を裏切ったという負い目を抱えて生きることになります。

また登場人物それぞれの愛情関係も最後までもつれ合ったまま。
リッチーは逮捕したシドニーに思いを寄せますが、彼女が選んだのは詐欺師アービンでした。
一方のアービンは年若き妻ロザリン(ジェニファー・ローレンス)と幼い息子との生活に執着しますが、ロザリンはマフィアと一緒になってしまいます。

誰もが望んだ結果を得ることのないラスト。

映画で展開されてきたスリルとコメディは、強烈な苦味を残します。



2014年9月30日火曜日

第二十三幕 ハンナ・アーレント

「ハンナ・アーレント」は2012年の伝記映画。ドイツ・ルクセンブルク・フランス合作。
マルガレーテ・フォントロッタ監督、バルバラ・スコヴァ主演。

主人公のアーレント(1906-1975年)はドイツ系ユダヤ人の政治思想家、哲学者。
第二次大戦中、ナチスの迫害を身をもって体験。夫のハインリヒ(アクセル・ミルベルク)とともに、ドイツからフランス、そしてアメリカへと亡命しました。その後はアメリカのシカゴ大学で教鞭をとるなどし、暴力や全体主義に関する著作を数多く残しています。

この映画では、アメリカの雑誌ニューヨーカーに、彼女が「イェルサレムのアイヒマン-悪の陳腐さについての報告」を寄稿した時期に焦点があてられています。

このアイヒマンとは、いかなる人物か。

アイヒマンはナチスドイツの元役人でした。
幾人ものユダヤ人を強制収容所へ送ったアイヒマンは、第二次大戦後、名前を偽り、アルゼンチンに潜伏。ところが、イスラエルの特殊機関モサドは彼ら戦争犯罪者の行方を追っていました。他国ではありながら、モサドは彼を拘束し、イスラエルの首都イェルサレムに移送。そして裁判にかけられることになりました。

アーレントは、アイヒマン裁判の傍聴記の寄稿を自ら売り込みます。
寄稿先は米国の雑誌「ニューヨーカー」でした。
被告のアイヒマンは、自らと自らの家族、同胞を不幸の淵に追い込んだ人物です。
アイヒマンがいかなる大悪党であったか。法廷で申し開きをするのか、あるいは罪を認めるのか。

ユダヤ人と全人類にとって世紀の裁判となるはずでした。



ところが、法廷のアイヒマンを目の前にして、アーレントは先入観を捨てざるをえませんでした。
アイヒマンは大悪党などではなかったのです。

彼は法廷で繰り返し主張します。
自分はナチスドイツの法と、役人としての職務に従っただけだと。「悪法も法なり」。彼は自分が法律や上司からの命令の善悪を判断できる立場にはなかった、というのです。

イスラエルの人々は、その弁明を真に受けません。
むしろ、アイヒマンは血も涙もない極悪人でなければならなかったのです。無数の同胞の命を奪ったのが、ただの小役人であってはならなかったのです。

また、アイヒマンは国家統合の象徴ともなる存在でもありえたのではないか。
中東の地に突如として誕生したイスラエルは、周囲を敵に囲まれ、争いを繰り返してきました。
いわば彼は、イスラエルとユダヤ民族の正当性を証明する生け贄、ともいえないでしょうか。

こうしてアイヒマンの裁判は、一種の政治ショーと化します。
罪状とは直接関係のない証人が次々と現れては、法廷でなじり、嘆くのです。

しかし、アーレントは演出やまやかしをすぐに見破ってしまいます。
アイヒマンは大悪党などではなく、上役からの命令を実行したに過ぎない。
子供がいじめを見てみぬふりをしたり、断れずに加担したりするように。

第二次大戦という特殊な状況ではなくとも、今後、第二、第三のアイヒマンが現れないなどと誰が言い切ることができるでしょうか。
アーレントはこのようなアイヒマン裁判の真実を、ニューヨーカー誌で指摘したのです。

これだけでも論争の種となるには十分すぎます。ところが、彼女の筆はとどまることを知りません。

彼女はユダヤ民族のタブーともいうべき問題にまで踏み込みます。
それは次のような問いです。
ユダヤ人の大量虐殺を可能にしたのは、民族内部に協力者がいたからではなかったか。

アーレントの論文に対して、ユダヤ人ばかりかアメリカの読者からも非難轟々。
しかしアーレントは、けして自説を曲げません。
ユダヤ人としてのアイデンティティよりも、思想家としての良心に従ったのです。

写真

非常によくできた伝記映画です。

しかしながら、いまひとつ腑に落ちない点も残りました。

ひとつは恩師であり不倫関係にあったとされるドイツの哲学者ハイデガーとのかかわり。
ハイデガーは、ナチスに協力的であったことで知られています。彼とアーレントの仲は戦争によって引き裂かれてしまいますが、大戦後も関係が続いていた、ともいわれています。
はたして彼の存在は「イスラエルのアイヒマン」執筆に影響を与えたのか。

もう一点は、ユダヤ民族にナチス協力者がいたというアーレントの指摘の根拠。
これは彼女の実体験に基づくものなのか。あるいは推論に過ぎないのか。

これらの点について、はっきり描かれることなく映画は結末を迎えます。
ドイツでは既知のことだからでしょうか。
それらは、映画を鑑賞する人それぞれの判断にゆだねられているのかもしれません。
「思考とは何か」ということを、作品上でハイデガーがアーレントに諭すように、。






2014年9月29日月曜日

第二十二幕 LIFE!

「LIFE!」は2013年公開のアメリカ映画。ベン・スティラー監督、主演のコメディ。タイトルとなっているLIFEとは、2007年に休刊になった米雑誌「Life」に由来します。

Lifeは1936年に写真週刊誌として産声を上げました。当時はインターネットはもちろんのこと、テレビのような動画メディアもどれほど普及していません。写真の持つ影響力は、現代とは比べようもありません。Lifeに寄稿したのは、ロバート・キャパ、土門拳ら時代を代表する写真家ばかりだったのです。

その後は時代と経営状況によって、休刊と復刊を繰り返すようになります。この映画でも取り上げられている先ほどの休刊は、インターネットの普及で紙の印刷メディアが読まれなくなったこととも影響しています。そうしてLifeはウェブ媒体に移行することになるのですが、この映画の主題となっているのは、まさに印刷版最終号の表紙写真をめぐるドラマです。



この映画の原題はThe secret life of Walter Mitty。

主人公のウォルターは、Lifeの写真のネガを管理しています。華やかな雑誌社にあっては、縁の下の力持ち。表に出ることもなく、一言でいえば、うだつの上がらない男です。

彼は美人同僚シェリル(クリステン・ウィグ)に思いを寄せるものの、会員制のマッチングサイト(日本風にいえば婚活サイト?)上でアプローチを試みるばかり。彼女からの反応は一切ありません。

さて、休刊の決まったLifeに新経営者テッド(アダム・スコット)たちがやってきました。
彼は経営合理化策を打ち出す一方、ウォルターに、最終号を飾る表紙写真の提出を求めます。テッドは社員の首切りにも着手していました。仕事に不手際があれば、会社に居場所がなくなるのは避けられません。ところがカメラマンのショーン(ショーン・ペン)が撮影したはずのネガがどこにもないのです。その前後のカットはあるのに、肝心の表紙用だけが抜け落ちていました。

その場では言い逃れでごまかしたものの、ウォルターはネガの提出を厳命されます。
こうしておとなしいウォルターはネガを探す旅に出ることになります。

なぜかって。「To see the world」がLifeのモットーだからです。
冗談ではなく、このLifeのモットーは映画のいたるところにちりばめられています。たとえば、映画の滑走路に、飛行機の座席の背もたれにさりげなく。


ショーンも「世界に目を向けよ」を地でいくカメラマンでした。
彼は常に世界中を撮影してまわっており、連絡先はおろか、所在すら誰にも分からないのです。

その手がかりはネガに残されていました。
ウォルターはニューヨークからグリーンランド、アイスランド、そしてアフガニスタンへと飛びます。ところが、いつでも後一歩のところで、ショーンとの接触を逃してしまうのです。

むなしく故郷に戻ってきたウォルター。
ところが母は思いがけないことを告げます。ショーンが家にやってきていたのです。
そうして再び旅立ったといいます。行き先はヒマラヤ。
長い長い旅の末、ウォルターはヒマラヤでついにショーンをつかまえます。
ところが驚いたことに、彼はネガを持っていませんでした。
それどころか、既にウォルターに渡したというのです。しかも、彼を驚かせるために、気づかれぬうちにウォルターの財布に忍ばせていました。ネガが入っているとはつゆ知らず、ウォルターは財布をゴミ箱に投げ捨ててしまっていました。

こうしてネガを提出できなかったウォルターは首を告げられます。
自分の首よりも、ウォルターは、ネガを紛失してしまったことが悔やまれてなりません。
長年、勤め続けてきた雑誌の最終号を飾ることができなかったからです。

ところがどっこい。ネガは思いがけない形ででてきます。
そして、そのネガに映されていたのは…。


ところで、近年、姿を消したメディアはLifeだけでありません。一時代を築いた多くの新聞や雑誌が続々と休刊、廃刊に追い込まれています。

それらのメディアを形作ってきたのは、記者やカメラマンの特ダネばかりではありません。
ウォルターのように、どちらかというと日の当たらない人たちの努力によって、版を重ねてきたのです。
映画「LIFE!」が人気を博したのも、日陰者だったウォルターが主役に躍り出るからでしょう。

またライフ誌のモットーである

“To see the world, things dangerous to come to, to see behind walls, draw closer, to find each other, and to feel. That is the purpose of life.”
を地で行く作品になっているのも、映画の作り手に雑誌への愛着があったからかもしれません。

2014年9月24日水曜日

第二十一幕 セント・オブ・ウーマン 夢の香り

セント・オブ・ウーマンは1992年のアメリカ映画。
盲目の退役軍人フランク(アル・パチーノ)と全寮制高校の生徒チャーリー(クリス・オドネル)の交流を描くヒューマンドラマ。この作品でパチーノはアカデミー賞の主演男優賞を受賞しています。

パチーノ演じるフランクは傲岸不遜。酸いも甘いも味わってきた大人です。
一方のチャーリーは、純粋で世間知らずの子供。

物語が動き出すのは、対照的な二人の出会いから。
チャーリーはアルバイトで、フランクの世話を頼まれます。
ところが、世話を受けるほうのフランクはとてつもなく気難しい人物でした。気に入らないことがあれば、すぐに怒鳴りだします。

チャーリーは全寮制名門高校の生徒ですが、家庭は貧しく、奨学金がたよりの苦学生です。
お金がないからといっても、こんな偏屈親父の相手はつとまりそうもありません。アルバイトを辞退しようしますが、そうこうしているうちにフランクは旅に出ると言い出します。行き先はニューヨーク。チャーリーは問答無用で同行を求められるのです。

困ったことになりました。
宿泊は名門ホテル。食事は高級レストラン。フランクは酒と女に囲まれて豪遊しようとご機嫌です。

ところがチャーリーは、高校を休まなければなりません。
そして一方で、今後の人生を左右しかねないトラブルにも見舞われていたのです。

彼は深夜の校内で、友人たちのいたずらを目撃してしまいます。彼らは闇に潜んで、嫌われ者の校長の愛車がペンキまみれになるわなを仕掛けていたのです。

そして翌朝。校長が駐車場に車を停めたところで、頭上に仕掛けられた風船からペンキが飛び出てきて、計画は成功。もちろん校長は激怒。犯人と目撃した生徒がいないか捜索を開始します。

運悪くチャーリーは校長に呼び出されてしまうのです。意地の悪い校長は条件を出します。
密告すればハーバードへ推薦。口を割らなければ退学だと。




チャーリーは自らの処遇がどうなるか気が気ではありません。早く学校に戻りたくて仕方がない。
一方のフランクは豪遊をやめようとはしません。退役軍人の恩給があるからといって、贅の限りを尽くそうとするフランクの行動は、チャーリーには到底理解できません。ところが、チャーリーはフランクのとんでもない計画を知ってしまうのです。

彼の途方もない豪遊は、人生に絶望した末での行動だったのです。
そう。彼はピストル自殺で人生に終止符を打つつもりでした。
一方のチャーリーは、学校に戻るどころではなくなってしまいました。必死でフランクを止めにかかります。元軍人と高校生の命がけのやり取り。

とんだ邪魔の入ったフランクはいきり立ちます。
しかも相手は人生も世の中のことも知らない青二才です。

「おれに人生が?人生がどこにある?あるのは暗闇だ!」
「おれに生きねばならない理由がひとつでもあったら言ってみろ!」

チャーリーも負けてはいません。

「あなたは僕がこれまでに会った誰よりも、タンゴとフェラーリの運転が上手だ!」

フランクはダンスホールで見初めた美女に、タンゴを踊ってみせたのです。そして街中では市場者のフェラーリを見事に操ってみせます。その腕前、堂々とした振る舞いは盲人のそれではありません。

それでも彼には信頼できる友人や家族は誰もいないのです。
久しぶりに訪れた実家ですら厄介者扱い。彼も彼で憎まれ口ばかりたたいてしまい喧嘩寸前。

自分があった誰よりも人生を知っているのに、孤独から抜け出すことができない。
チャーリーはそんなフランクをほうっておけなくなります。
一方のフランクも、チャーリーが抱えている悩みを知り、なんとか助けになろうとします。

ひょっとしたら、チャーリーが自棄を止めてくれるかもしれないと期待していたのでしょうか。
ただ、ニューヨークへの旅の同伴者がチャーリーのような純真な青年でなければ、こうした展開になってはいなかったのかもしれません。

まったく境遇の違う二人に芽生えた友情。
それだけでも十分に感動的ですが、本物の感動はラストにやってきます。

フランクとの旅から戻ったチャーリーに待っていたのは公開の懲罰委員会。
校長は全校生徒の前で、チャーリーに密告を促そうとします。

チャーリーは仲間を売りたくありません。しかし、さもなくば退学です。
そこに現れたのは誰あろうフランク。校長は退出を迫りますが、フランクはチャーリーの親代わりだと言い張るのです。

フランクは校長と生徒の目の前で演説をぶちます。

「私も何度か岐路に立った。どっちの道が正しい道かは判断できた。いつも判断できた。だが、その道を行かなかった。困難な道だからだ。チャーリーも岐路に直面した。そして彼は正しい道を選んだ。真の人間を形成する信念の道だ。彼の旅を続けさせてやろう。彼の未来は君ら委員の手中にある。価値ある未来だ。保証する。潰さず守ってやってくれ」

愛情を持って 校長は数々のエリートを輩出してきたこの学校の伝統を説いて聞かせますが、フランクはこう反論します。仲間を売るよう奨めるような学校に、責任感のあるリーダーが育てられるのか、と。

フランクの名演説に、生徒たちは総立ちになって拍手を浴びせます。

ちなみに映画の原作となっているのはイタリアのジョヴァンニ・アルピーノの小説。「闇と蜂蜜」という意味で、同国で映画化されています。

セント・オブ・ウーマンはそのリメーク。
ただ作中の設定すべてが巧妙にアメリカナイズされているので、そう指摘されないと容易には分かりません。

2014年9月21日日曜日

第二十幕 ウルフ・オブ・ウォールストリート

「ウルフ・オブ・ウォールストリート」は2013年のアメリカ映画。元証券ブローカー、ジョーダン・ベルフォートの実話が原作となっています。

監督は社会派マーティン・スコセッシ。主演はレオナルド・ディカプリオ。
金融界を舞台にした、オリバー・ストーン監督作品「ウォール街」と続編「ウォールストリート」と同様、ウルフ・オブ・ウォールストリートの主人公ジョーダンも違法行為によって暴利を稼ぎ、そして破滅を招きます。

一方で両作品の違いは、前者がゴードン・ゲッコーの強欲と狡猾さに焦点が絞られているのに対して、後者がドラッグとセックスの描写に満ち満ちていること、でしょうか。

会社で、飛行機で、車で。
ウルフ・オブ・ウォールストリートでは、ありとあらゆるところで、これでもかといった具合に乱痴気騒ぎが繰り広げられます。

もともとは金融業界で働くストレスをまぎらわすため、そうした行為に手を染めたはず。ところがしだいに、薬と性を得るために働くのか、境界がわからなくなってしまいます。
あまりに強い薬物を服用し続けた結果、体の自由がきかなくなるシーンが幾度も繰り広がれらるのですが、ディカプリオらの演技は本物の中毒者と見まがうほどです。



違法な証券取引によって富豪となったジョーダンは、クルーザー(もともとはココ・シャネルのため建造されたとか)を購入します。船に命名されたのは美しき再婚相手の名。成金趣味のなせる業なのか、薬物によって正常な判断力を失ったせいなのか。

さて作品の終盤、悪の限りを尽くして貯めたスイス銀行の預金に危機が訪れます。
現金の運び屋だった妻のおばが、急死してしまったのです。預金の名義はおばのまま。ジョーダンに贈与するという遺言は残されていませんでした。

その一報を受け取ったのはエーゲ海でのバカンス中。
ジョーダンはフランスのモナコまで航海するよう船長に命じます。モナコからスイスに飛んで遺言書を偽造するためでした。薬物で判断力を失っている彼は、「海がしける」という船長の反対を押し切って出発します。ところが、船長の予想通り海は大荒れとなり、船は転覆の危機を迎えます。ジョーダンら一行は、死を覚悟したもの、この期に及んでも薬物を手放しません。

ところがイタリア海軍特殊部隊のヘリに救われるのです。
沈み行く船をよそに、ジョーダンらは救助されたヘリの機上で再び乱痴気騒ぎをはじめます。まったく、どうしようもない人たちです。狂っているとしかいいようがありませんが、これは作り話ではなく、実話なのです。

ジョーダンの儲けの手口は、上昇の見込みのないペニー株を顧客に売りつけ、高い手数料を取るというものでした。証券詐欺や資金洗浄などによって逮捕された後、下された命令は1億1040万ドルの返済。ジョーダンは出所後、著作や講演活動によって収益を得たものの、それでも個人で返しきれる額ではありません。

しかしながら、これだけの罪を犯しているというのに、このジョーダン、どこか憎めません。

なぜなのか。
それは彼らが常人では到底できない欲望を尽くしてきた、からではないでしょうか。
そして欲望の限りを尽くしたなれの果ても示してくれたのです。

神様が彼に悪運を授けたのもそのためかもしれません。

2014年9月20日土曜日

第十九幕 オリバー・ツイスト

「オリバー・ツイスト」は2005年のイギリス映画。ロマン・ポランスキー監督。
原作はチャールズ・ディケンズの長編小説。

舞台は産業革命期のイギリス。
産業革命は生産手段のある資本家には富をもたらした半面、持たざる者は自らの労働力を売るしかありません。労働者は仕事を求めて都市へと集まってきます。主人公のオリバー・ツイストもその典型だったのでしょう。

オリバー少年は孤児。孤児院で虐待を受けたのが原因でロンドンへ向かいます。ロンドンへは食うや食わずの逃避行。もっともロンドンにたどり着いたところで、仕事と食にありつける保障はないのです。

飢えた果てに、雑踏にへたり込むオリバー。あわれな彼を拾ったのが盗賊団でした。
その頭領は奇怪な老人でした。名はフェイギン。ディケンズの原作ではユダヤ人という設定です。
フェイギンは、オリバーのように飢えた少年たちを拾ってきては、盗みをさせていたのです。



少年たちは生きるために悪事を働きます。指示をするのはフェイギン。この老人に背くことは死を意味しました。
それでもオリバーは悪に染まりません。孤児院で叩き込まれた道徳と礼儀のためでしょうか。

ところが、オリバーは警察につかまってしまいます。
仲間の少年たちとともに本屋ですりを働こうとしたときのことでした。オリバーは法廷に引き出されますが、本屋の主人がオリバーが犯人でないことを証言します。

無罪となったオリバー。この少年を引き取ったのが、ブラウンローという裕福な紳士。
ブラウンローはオリバーを保護し、オリバーも幸せに暮らします。ところが、この幸福も長くは続きません。
オリバーがつかいに出たときでした。フェイギンの一味が再びさらっていったのです。

フェイギン一味に運命をもてあそばれ続けるオリバー。
フェイギンの隠れ家から脱走を図るものの、あえなく捕まり、屋根裏部屋に閉じ込められます。
その陰で、フェイギンの一味、ビル・サイクスという男はブラウンロー邸への強盗を企てていたのです。

オリバーは案内役として引き出されます。もちろん本意ではありません。
そして決行の夜。物音に気づいたブラウンローはオリバーの姿を認めます。助けを求めて叫ぶオリバー。このときブラウンローがあわてて発砲したために、オリバーは重傷を負います。オリバーはフェイギンの一味に抱えられて隠れ家に戻りますが、フェイギンとビルはオリバーの殺害を決意します。

これを見かねたのがビルの妻ナンシーでした。ナンシーは隠れ家を抜け出し、ブラウンローと密会。オリバーが捕らわれていることを告げます。
この告げ口を知ってビルは逆上します。ナンシーは殴殺。オリバー誘拐とナンシー殺害は新聞をにぎわす大ニュースとなるのです。

警察によるおおとりものの末、ビルは死に、フェイギンはついに刑務所送りになります。
あわれな少年オリバーをめぐるはらはらドキドキの展開も、ここまでは予想の範囲。

しかし、死刑となったフェイギンの面会に訪れたオリバーは、予想外の行動をとります。
大悪党フェイギンへの感謝を述べるのです。死刑におびえていたフェイギンに笑顔が戻ります。
これだけひどい目に合わされたのだから、恨み節をぶつけてもよさそうなものです。

心温まるというよりも、現代人としては違和感を覚えてしまいます。
それでも、当時はいつ飢えて死ぬかわからない時代。庶民にとっては、一日一日を生きるのに精一杯。たとえどんな悪党でも、フェイギンが与えてくれた一宿一晩の恩を忘れられなかったのでしょうか。
人々の価値観は善か悪かよりも、まず生か死かに置かれていたのかもしれません。

いたいけなオリバー少年は、自分の意思で生きるというより、フェイギンやブラウンローら大人たちの間で運命をもてあそばれる存在です。その点は、同じくポランスキー監督作品の「戦場のピアニスト」の主人公、シュピルマンに通じるところがあります。

だからこそ、フェイギンの巨悪ぶり、現代人の価値観を超えた存在、そして産業革命期の過酷さが浮き彫りにされるのではないでしょうか。 

2014年9月16日火曜日

第十八幕 ヒアアフター

「ヒア アフター」は2010年のアメリカ映画。クリント・イーストウッド監督。アカデミー賞視覚効果賞。
冒頭で展開される津波のシーンは、映画とは思えぬ迫力。それもそのはずで、スティーブン・スピルバーグが製作総指揮としてスタッフに加わっているのですから。

日本では東日本大震災の被災者感情に配慮して、公開開始1ヶ月足らずで上映打ち切りになったのも記憶に新しいところかもしれません。

とはいえ、ヒア アフターが優れているのは単なる特撮ものとしてだけではありません。
現実世界とスピリチュアルな非現実的世界が交錯するストーリーに妙があります。

ここでいう「スピリチュアル」というのも、心霊現象など日常生活とまったく縁のない世界、でもありません。
ヒア アフターで描かれているのは、臨死体験と死者との交信。

臨死体験にしろ、チャネリングにしろ、人間心理が作り出した幻想なのかもしれません。
ただ、この映画でリアリティをもたらしているのは、スピリチュアルな世界を体験したゆえの孤独が描かれているからではないでしょうか。

マット・デイモン演じる霊能力者の主人公のジョージ、津波から九死に一生を得たことで臨死体験をするフランスの女性ジャーナリスト・マリー、そして事故で双子の兄を失った少年マーカス。それぞれが誰からも理解されない孤独と悲しみを抱えて生きています。

霊能力のような非科学的な才能があれば、はたして幸せに感じるのでしょうか。
少なくともジョージは、自らの才能を忌み嫌うことになります。実の兄が、弟の才能をビジネスに利用しようとするからです。もともと文学青年である彼は、霊能力など捨て去ってしまって、静かな暮らしを願います。そして兄には黙って、故郷からイギリス・ロンドンへと旅立ちます。


一方のマリーは、自らの臨死体験をジャーナリストとして発表したいと願います。表現欲求というよりも、自らの体験を理解してほしかったからかもしれません。ところが、彼女の要求は受け入れられるどころか、周囲を困惑させてしまいます。はたして、そのような非科学的な体験がテレビの視聴者に受け入れられるのか。周囲からの信用を失ったマリーは、ついには干されてしまいます。そうして彼女も、出版のつてを求めてロンドンへと渡るのです。

そしてマーカス少年。彼には特殊な才能も体験もありません。
父親はおらず、母親も薬物中毒から抜け出すことができません。保護観察?のため子どもから引き離されてしまいます。少年は里親になじむことができず、心のよりどころであった双子の兄を交通事故で失ってしまうのです。
彼は幼くしてぬぐいがたい孤独を抱えることになります。生育環境も恵まれていません。ただ彼の境遇が特殊だとも言い切れないのではないでしょうか。薬物、貧困、交通事故。われわれはこれらの危険や不幸と常に隣り合わせです。この少年はわれわれ一般人を象徴する存在なのかもしれません。

まったく接点のなかった3人を引き合わせる役割を果たすのもマーカスでした。
天国の兄との交信を望んだ彼はジョージを探し当てます。霊能力を捨て去ろうとしていたジョージは困惑しますが、彼の兄への愛情にほだされてチャネリングを試みます。そしてブックフェアでロンドンを訪れていたマリーとジョージも邂逅を果たすのです。

社会から切り離されかけた3人の出会いは、静かな感動を呼び起こします。
また作品にリアリティをもたらす演出も見事です。冒頭の津波、そしてマーカスが遭遇する地下鉄テロ。どの出来事かは明示されていませんが、現実と非現実をたくみに交差させています。

第十七幕 マネーボール

「マネー・ボール」は米大リーグ・オークランドアスレチックスとゼネラル・マネージャー(GM)、ビリー・ビーンの奮闘を描いた映画。ブラッド・ピット主演。

マネー・ボールの原作は、同名のノンフィクション。全米でベストセラーとなり、邦訳も人気を集めました。

なぜか。
野球を統計のスポーツとしてとらえた点が、ビジネスマンにも支持されたのでしょう。
アスレチックスには有名選手を獲得できる潤沢な資金がありません。いわば中小企業です。ならば、お金をかけずにチームを強化しなければなりません。そこで採用したのが「セイバーメトりクス」という理論。ウィキペディアの定義によると

過去の野球に関する膨大なデータの回帰分析から「得点期待値」というものを設定して、これを上げるための要素を持つ選手を良い選手とする。
これだけではチンプンカンプン。そこで本書で紹介されている戦略の一例をご紹介します。
たとえば、アスレチックスは「選球眼」のよい選手を優先的に獲得しています。これは安打や本塁打が出なくとも、3つの塁が埋まればそれだけ得点期待値が高まるからです。
一方で、犠打は相手チームにアウトを進呈することになるので重視されません。同じように盗塁も走者が刺殺される可能性があるので評価されません。
アスレチックスが獲得するのは、他球団が見向きもしない選手ばかり。
重要なのは選球眼のよさであって、体格や走力は二の次。そういった選手はサラリーが安く抑えられます。資金力のないアスレチックスにとっては理にかなった戦略なのです。

もう一点、マネー・ボールを魅力的にしているのがビーンGMの破天荒さ。
統計を駆使してアスレチックスを率いてきたとはいえ、彼の人間像は緻密さとはかけ離れています。
映画で印象的なのが「Is loosing fun?」とロッカールームで選手に訴えかけるシーン。この後、ビーンGMは怒りにまかせてバットを放り投げます。それだけならまだしも、試合に負けた腹立ちから、窓ガラスに向かって物を投げつけるシーンも。

ビーンはもともと、将来を嘱望された選手でした。ところが大成しませんでした。
その切れやすい、むらっけのある性格が災いしたのでした。
引退後に球団のフロントに移ってからも、彼はことあるごとに怒りをぶちまけます。


彼は自らの意見や感情をオブラートに包むようなことはしません。
見込みのない選手には、はっきりと役立たずの烙印を焼き付けます。一方で、獲得した選手たちには、その利用価値をストレートに説明します。

アスレチックスは選球眼に優れた選手を獲得するだけでなく、ベテラン選手も多く獲得しています。
彼らベテランは、好条件で契約してくれる球団はなかなかありません。選手としての寿命が長くないからです。

一方でアスレチックスにとっては逆にチャンス。実績のある選手を格安の年棒で抱えることができるのです。かつてはヤンキースを退団した松井秀喜も、一年契約でアスレチックスに入団したことがあります。映画の中でビーンは、獲得したベテラン選手、元ブレーブスのデービッド・ジャスティスにこう告げます。
最後の一滴をしぼりとる、と。

ビーンにとって選手は商品でしかありません。派手なホームランはなくても、四球さえ選べればいい。また、安く獲得した選手が活躍すれば、今度は高い値段で他球団に売りつけます。
監督すら将棋の駒、どころかお飾りと同じです。原作ではGMの指示に背いた監督を解任する場面が描かれています。

それでも、ビーンとアスレチックスからは不思議とビジネスライクでドライな感じを受けません。
きっと彼が挫折を経験してきたからでしょう。

実際問題、貧乏球団のアスレチックスは、常識的な戦術では金満球団に太刀打ちできません。一方で、どん底から這い上がろうとする選手に私情を挟んだところで、なんの助けにもなりません。
ビーンが経済合理性にしたがってチームの強化を進めるのも、ほかに選択肢がないからです。

映画のラストで、ビーンはレッドソックスから誘い受けます。
名門レッドソックスも、最近はセイバーメトりクスを取り入れているとか。資金力ではアスレチックスを大きくしのいでおり、移籍すれば望むとおりの補強戦術を駆使できたことでしょう。
しかし、彼は誘いを断り、貧乏球団アスレチックスのGM職にとどまるのです。

知恵と情熱で、強者に勝つ。それが彼の生き方なのかもしれません。
そんなビーンの反骨心が、マネー・ボールに深みを与えているのでしょう。

2014年9月10日水曜日

第十六幕 ミッドナイト・イン・パリ

ミッドナイト・イン・パリ(2011年)は、ウッディ・アレン監督のコメディ映画。
アカデミー賞・脚本賞受賞。 

舞台はパリ。
作家志望の主人公ギルは、婚約者イネスとその両親とフランス旅行に出かけます。
ところが結婚を控えているというのに、ギルとイネスとの趣味や価値観の違いがパリで浮き彫りになってしまいます。

二人は旅行先で、たまたま知人のポール夫婦と出会います。
イネスはポールを気に入っているものの、ギルには彼のインテリぶったところが鼻持ちなりません。
イネスとの仲がギクシャクし始めたギルは、夜のパリに出かけます。
街角で酔いつぶれていると、目の前には一台のクラッシクカーが。
「乗れよ」。わけもわからず車に乗り込み、連れられた先はパーティーの会場。 そこに集まっていたのは、なじみのある顔ばかり。フィッツジェラルド、ヘミングウェイ、ピカソ…。

それもそのはず、「失われた世代」を代表する文人ばかりだったのです。

ギルはクラシックカーに乗って、1920年代のパリにタイムスリップしたのでした。 
作家志望のギルにとって、ヘミングウェイやフィッツジェラルドは雲の上の存在です。彼らが集い、議論を戦わせる姿にみせられて、ギルは宿泊先から夜な夜な夜の街に出かけていきます。 

デートの誘いを断られ続けるイネスは、婚約者の行動を不信がります。

ところが、「失われた世代」のとりこになってしまったギルを止めることはできません。
小説家志望の彼は、ヘミングウェイらに作品を批評してもらいたかったのです。 

そして彼は、ピカソの愛人アドリアナと恋におちます。
かれんなヒロイン、アドリアナ。でも、ピカソを慕っているというのに、彼に振り回し続けられています。

ミッドナイト・イン・パリの映画評論・批評

ギルは親身になって彼女の相談に乗ります。 
ところが1920年代の夢の世界でデートをしていた二人は、ひょんなことから、さらに過去にタイプスリップしてしまうのです。

そこでは、さらに古い時代の文人たちが集っていました。
これぞ「ゴールデンエイジ」とアドリアナは目を輝かせ、過去の世界から戻るのを拒みます。 

一方のギルは、そこで夢からさめてしまいます。
結局、彼は古のパリにしあこがれていただけだったのです。

マッチョなヘミングウェイ、奔放なピカソ…。
失われた世代の文人たちは、さもありなん、といった行動や言動を繰り広げます。

激論を交わし、ときには取っ組み合いのけんかもします。
それに比べれば、ギルは自信なさげで、ひ弱にうつります。なんの実績もない小説家の卵が主人公だからこそ、このコメディ映画が成り立つのですが。

失われた世代は、世界の文学、芸術に今も大きな影響を及ぼし続けています。
そんな彼らの間に現代人が迷い込んだらどうなるか。この作品が面白いのは、ウッディ・アレンの発想力のゆえなのでしょう。

2014年9月7日日曜日

第十五幕 世界にひとつのプレイブック

「世界にひとつのプレイブック」は、ブラッドレイ・クーパー主演。
ヒロインのジェニファー・ローレンスはアカデミー賞主演女優賞を獲得しています。

互いに心の傷を負った主人公パットとヒロインのティファニーが心を通わせていくというストーリー。
その心の傷というのが、いかにも現代的でアメリカ的。主人公は妻の浮気現場を目撃してしまったために、トラウマを抱えています。一度、きれてしまうと、だれかれと見境なく暴力を振るったり、破壊衝動に駆られたりと、家族も手に負えないほど。

さらに困ったことには、元妻に近づかないという条件付きで出所してきたにも かかわらず、執拗に妻との復縁を図ろうとしているのです。元妻への愛情のゆえの行動というより、一種の偏執狂。

一方のヒロインも、夫を事故で亡くしたことで心に深い傷を負いました。
ところが、その傷を性行為で埋めようとするのです。 かれんな容姿と裏腹に、深刻なセックス依存に陥ってしまいます。一度関係を持っただけの男たちが、次々とやってくる。そしてセックス依存症から抜け出せないという悪循環。


その二人がトラウマを癒そうとはじめたのがダンスでした。
乗り気ではなかったパットをティファニーが強引に誘うのですが、そのコンテストの結果が賭けの対象となってしまい、ギャンブル好きのパットの父(ロバート・デニーロ)までも巻き込んでの大騒ぎになってしまいます。

まったくの素人の二人がダンスに励む様子は、一見ほほえましく映ります。
でも、この二人、いつきれてしまうかわかりません。

予定調和的なストーリーなら、めきめきと上達して優勝を飾るところなのでしょうが、二人とも下手なまま。
もっとも、賭けの対象としては、大方の予想を裏切る点数をあげます。
素人ペアのダンスが、ハラハラドキドキを誘うのは、二人がいつきれてしまうかわからないからです。

かなり「いたい」映画ですが、 ストレス社会に暮らしていれば、いつ彼らと同じような境遇に陥るかわかりません。
ダンスコンテストを終えて、互いの感情を確かめ合う二人。
トラウマと破壊衝動を抱えた者同士が結ばれるという新しいタイプのコメディといえるのではないでしょうか。 

2014年2月9日日曜日

第十一幕 戦場のピアニスト

戦場のピアニスト(2002年)は、ポーランドでのユダヤ人迫害に材をとった映画。
ユダヤ系ポーランド人のポランスキー監督がメガホンを取り、カンヌ映画祭最高賞パルムドール、米アカデミー賞で監督賞、脚色賞、主演男優賞の3部門受賞。

主人公のピアニスト、ウワディク・スピルマンは実在の人物。
管弦楽から大衆音楽までを手がけたポーランド人にはおなじみの音楽家です。ちなみに彼の子息は、日本の大学で教鞭をとっています。



本作品では、ホロコーストの嵐が吹き荒れる第二次大戦中のポーランドで、スピルマンが迫害と戦火を逃れて生き抜くさまを描きます。ポランスキー監督自身も、命からがらナチスの手から逃れたそう。母親はアウシュビッツで命を奪われたといいます。 目を奪れるのは、ナチスの迫害の凄惨さ。目を背けたくなるシーンの連続です。
冒頭、ラジオ局で収録演奏をしていたスピルマンは、突如としてドイツ軍の爆撃にあいます。
跡形もなく破壊されたスタジオ。それは、スピルマンたちポーランドのユダヤ人に降りかかる苦難の始まりにすぎませんでした。ポーランドに侵攻したナチスは、ユダヤ系の市民を一人残らず探しだします。彼らはユダヤ人の居住区「ゲットー」に押し込められるのです。

戦時中でただでさえ物資が不足した時代。
社会から隔離されたゲットーで、スピルマンたち多くのユダヤ人たちが生活難に陥ります。スピルマンもカフェの演奏でどうにか生計を立てていましたが、さらなる苦難が襲うのです。ナチスによる強制収容所への移送でした。 スピルマンの一家も、収容所行きの列車に引き立てられていきます。
ところが彼一人だけが一命をとりとめるのです。偶然にも居合わせた旧知の警察署長の機転で、列車を待つ列からつまみ出されたのです。 こうして再びゲットーに戻ったスピルマン。

列車から離れていくスピルマンとは対照的に、家族は収容所送りにされてしまいます。
ここでスピルマンが、家族の命乞いをしたり、あるいは家族と運命をともにするなどといえば、感動的なのでしょうが、彼はそれ以上の行動をとろうとはしません。
また引き離されていく家族も、彼に恨めしい視線を送るわけでもありません。
せめて彼一人が生き延びることができるなら。この世から消えて行く自分たちのの運命を悟った上でのことだたのでしょう。

ところが、彼には安寧は訪れません。ここからスピルマンは隠れ家を点々とする生活を送ることになるのです。音楽家として知り合ったポーランド人にかくまれたものの、隣人に何度も発見されて逃亡を余儀なくされます。
その後に頼みにした反ナチスのレジスタンス活動家は、ワルシャワ蜂起を起こすものの失敗。彼らはむごたらしく殺されてしまいます。

ポーランドに迫っていたソ連軍が、この蜂起と連携すれば成功した可能性もありました。
ところが、ロンドンにあったポーランド亡命政府は自由主義陣営寄り。ソ連とは家でイデオロギー的に相容れない関係でした。

こうしてスピルマンが逃亡を繰り返すうち、首都ワルシャワは廃墟と化してしまいます。
彼は廃墟の病院に一人身を潜めます。 このまま戦争が終わるまでやり過ごせそうに思えたある夜のことでした。

こぼれ落ちた缶詰に手を伸ばしたスピルマンの目の前に、一人の男の姿が。
それはほかでもない。スピルマンたちユダヤ人を追い回してきたナチスの将校だったのです。

スピルマンの命は風前の灯。
しかし、どのような運命のいたずらか、スピルマンに一筋の光が差します。
将校は片隅の古ぼけたピアノを無言で指差すのです。演奏でピアニストであることを証明せよ、と。
スピルマンは将校一人だけを聴衆に、一世一代の演奏をみせます。もし下手をしでかせば、ピストルで打ち抜かれるだけという絶体絶命の危機。忘れかけていた鍵盤の感触を確かめるように、スピルマンは無心で音色を奏でるのです。

この演奏に心打たれた将校は、スピルマンを見逃します。
それどころか、食料を分けてやりさえしたのです。

そして、スピルマンが待ちに待った終戦を迎えます。
周囲にはユダヤ人はもちろんのこと、ワルシャワ市民の姿すら見当たりません。

奇跡的にナチスの迫害と戦乱を生き抜いたスピルマンが見たのは、ソ連軍の捕虜となったナチス将兵の姿。
鉄条網の向こう側には、スピルマンにも顔なじみの捕虜の姿がありました。そう。彼の命を救った将校でした。
スピルマンに命乞いをする将校。しかし、彼はその場を立ち去ってしまいます。
なぜ助けなかったのか。その真意はわかりません。

この後、ポーランドの国民的音楽家として名声を得るスピルマン。
しかしながら、本作品で描かれる彼の姿は徹底して受動的です。蜂起する同胞たちをよそに、大戦中も支援者の隠れ家を点々とするだけ。さらには誰かに救いの手を差し伸べることもしません。

彼の姿は、ナチスに運命をもてあそばれたユダヤ人を象徴しているともいえます。
ポランスキー監督はスピルマンの姿を通して、自身の静かな怒り、鎮魂の思いを込めたのかもしれません。

2014年2月6日木曜日

第十幕 かもめ食堂 

「かもめ食堂」に、見る側を高揚させるようなエキサイティングなシーンはありません。
それでもひきつけられるのは、平凡な人たちの平凡な夢を描いているからでしょう。




平凡ではないのは舞台がフィンランドであること。同じ海外でも、アメリカよりフィンランドのほうが穏やかで静かというイメージがある。「ムーミン」などで知られるとはいえ、日本人にとってまだまだなじみのある国とはいいがたい。
誰にでも届きそうだけど、誰にも知られたくないひそやかな幸せ。この映画はそんな気持ちを抱かせるのです。


メインキャストの三人も、失礼を承知でいえば、どこにでもいそうな女性。でも好感がもてます。
かもめ食堂を切り盛りする主人公・サチエ(小林聡美)。それを手伝うミドリ(片桐はいり)、マサコ(もたいまさこ)。彼女たちの頭にあるのは、おいしい食事を提供するということ。そしてお客さんが一人でも増えてほしいということ。


三人とも事情を抱えてフィンランドにやってきたようなのに、あえてそれぞれの心のうちに立ち入らない。食堂での会話や仕事を通じて、無言のうちに分かり合っている。


この映画の唯一のクライマックスといえなくもないのは、サチエの念願かなって、かもめ食堂が初めて満席となるシーン。ここでも女性たちが手をたたいたり、抱き合って喜ぶことはありません。ただ静かに喜びをかみしめるだけです。


他人に誇るような輝かしい経歴はなくとも、なにげない一日一日を積み重ねることの大切さ。そんな気持ちに立ち返れることが、公開から年を重ねても、この映画が支持され続けている理由なのでしょう。



2014年2月3日月曜日

第九幕 人生の特等席 

「人生の特等席」は2012年のアメリカ映画。
クリント・イーストウッド演じる大リーグのスカウトマンと娘との愛情がテーマ。
イーストウッドはグラン・トリノ(2008年)以来の久々の主演作。

アトランタ・ブレーブスのスカウトを長年務めてきたガス(イーストウッド)は、選手を発掘するため全米をくまなくめぐる生活を長年続けてきました。自然、家族との時間は犠牲にあってしまいます。

球団側から引退を勧められるものの、野球を愛するガスは聞き入れません。経験と観察眼に頼った彼のスカウト手法はしだいに時代遅れになっていたのです。偏屈なガスは球団から疎まれることになります。

そんな孤独なガスのもとを訪ねるのが、一人娘のミッキー。弁護士事務所で働くキャリアウーマンでしたが、久方ぶりに姿を見せます。幼いころから親子でアマチュアの選手を追い続けてきたミッキーは、父親のスカウト業を助けようとしゃかりきになります。父はそんな娘をいぶかしみます。彼女は自らの仕事振りが認められないことに傷つき、事務所を飛び出したのでした。

父娘はあるアマチュア選手を追い続けます。ボー・ジェントリーという長距離打者です。他球団もマークするほどの好素材。ガスはあるスカウトの姿を認めます。かつて自らが投手として発掘したジョニーでした。彼は将来を期待されていたものの、選手としては芽が出ずスカウトに転身したのです。

メジャーリーガーにはなれなかったものの、屈託のない好青年。自然、ジョニーとミッキーの間に恋が芽生えます。それをまぶしそうに眺めるガス。

しかし、彼には不安がありました。ひとつはミッキーの弁護士としての将来。娘の職場での孤立。それを支えるパートナーにも恵まれない、いや異性に心が開けないのは、仕事優先で幼少期に娘に寄り添えなかったせいではないかと悔いるのです。事実、そこにはある秘密が隠されているのですが…。


もうひとつの不安は本業のスカウト。球団側はボー獲得の意向を固めますが、ガスは彼の欠点を見抜いていました。この映画の原題は「Trouble with the curve」。つまり変化球に弱いのです。ところがデータ重視に凝り固まった球団と、スカウトの責任者たちはガスの意見を聞き入れません。球団はボーの指名を強行。ガスは球団を去ることになります。

老境にして、唯一心のよりどころであった野球を奪われたガス。
老スカウトマンの眼力の正しさを証明したのが、なんとミッキーでした。彼女は無名のアマチュアピッチャーを連れて、ブレーブスの本拠地に現れます。彼はボーのアマチュア時代に球場で売り子をしていた青年でした。彼は得意球のカーブを放ります。どこの馬の骨かもしれない投手との対戦を強いられたボーはいきり立ちますが、カーブに手も足も出ません。将来の主軸として自信を持って球団が獲得したボーは、ガスの見立てどおり見掛け倒しでした。

ジョニーと旅立っていく愛娘のミッキーを、ガスはまぶしそうに見送ります。
おとぎ話のようですが、野球は金やデータでするものではない。1球のボールと一本のバットから思いもよらないドラマが生まれるスポーツなのです。

スカウトという普段日のあたらない役どころに目をつけたのも、この映画に深みを与えています。日本のスカウトがまさに影のような存在なのに対して、アメリカには球場で目だって仕方のないスカウトもままいるようです。野茂の現役時代のこと。バックネット裏でスピードガンを構えている白ずくめのスーツのスカウトが必ず中継に映っていたこともありました。

とはいえ、その実態は一般にはあまり知られてはいません。ですからガス=イーストウッドのように80歳の超ベテランスカウトがいたとしてもあまり違和感がありません。そんな厄介者扱いのオールドボーイが、一躍ヒーローになるラストは野球というスポーツの痛快さをあらためて教えてくれるようです。










2014年1月28日火曜日

第八幕 砂漠でサーモン・フィッシング 

「砂漠でサーモン・フィッシング」は2011年のイギリス映画。ラッセ・ハルストレム監督、ユアン・マクレガー主演。原作はイギリスのベストセラー小説「イエメンで鮭釣りを」。

「砂漠に大量の鮭を移植させる」というコメディ映画です。

「砂漠でサーモン・フィッシング」の画像1

主人公の水産学者ジョーンズ博士は真面目な研究者。
彼のもとに、「砂漠で鮭釣りがしたい」という調査依頼が舞い込みます。依頼主はイエメンの富豪でした。
 
当然ながら、砂漠の国イエメンは鮭の生息に適しません。そこでアイディアの一つとして浮上したのが、大量の鮭を生きたまま砂漠に輸送するというもの。

ジョーンズ博士はこのプロジェクトを辞退しようとします。ところが、そこに圧力をかけてきたのが英国政府。
アメリカとともに派兵していたアフガン政策に対して、国民から批判が起きていました。この壮大な計画を実現させることで、批判をかわそうという思惑があったのです。

ジョーンズ博士は、この計画に踏みとどまります。
彼を翻意させたのは、ひとつには依頼主であるイエメンの豪族ムハンマドが人間的な魅力に満ちていたためです。彼は英国仕込みの高い教育と理想、そして勇気を兼ね備えていました。鮭の移植は道楽のためだけでなく、砂漠に灌漑施設を整備する計画も持ち合わせていたのです。その理想のために、地元民の反感を招くことになります。ついには命を狙われることにもなりますが、けしてひるみません。

そしてなにより、彼の心境に変化をもたらしたのは、ヒロインのハリエット(エミリー・ブラント)の存在。
この計画をジョーンズ博士のもとに持ち込んだ投資コンサルタントです。彼女には恋人がいました。彼は軍務でアフガンに派遣されたものの、事故で行方不明に。失意のどん底にあるハリエットを慰めようとするうち、恋心が芽生えてきます。ジョーンズ博士自身も、生活の行き違いから妻に逃げられたばかりだったのです。

傷心のジョーンズ博士とハリエットは、鮭の移植と灌漑施設整備の仕事に情熱を燃やし始めます。
苦難を乗り越えて灌漑施設が完成するという段になって、二人のもとにニュースが飛び込みます。アフガンで不明になったハリエットの恋人が無事だったことがわかったのです。
英国政府は、感動の生還劇をしたたかに演出しようとします。灌漑施設の完成とあわせて、ハリエットとの再会を大々的に報道させようと図るのです。

一方のジョーンズ博士にとっては、恋人を失いかねない最悪のニュースです。
ところが、灌漑施設完成の陰で、とんでもない陰謀が忍び寄ってきていました。鮭と巨大灌漑施設。砂漠に異質な西洋文明を持ち込んだことで、地元民はテロを決行します。
完成したダムは爆破され、イギリスから大量に持ち込んだ鮭はほとんどが死に絶えてしまったのです。

これまでの努力はすべて水の泡となってしまいました。
それでも理想家のムハンマドは立ち上がります。ジョーンズ博士も、砂漠に灌漑施設が完成させるまでイエメンにとどまり続けることを決意します。そして、ハリエットも。ハッピーエンド。めでたし、めでたし。


文明国のイギリスと未開の砂漠という対比は、ご都合主義のような気もしないではありません。
砂漠の国に鮭がもたらされることで起こる反応も、「文明の衝突」さながら。一方で、現地人がテロに走らざるを得ないという結末には、驕りと短絡さが見え隠れしているような。
それでも、テロやアフガン戦争といったグローバルな要素も上手に絡めたコメディに仕上がっています。

2014年1月18日土曜日

第七幕 華麗なるギャツビー 

昨年6月の日本公開開始から3日間で15万人を動員した「華麗なるギャツビー」。
原作はいわすと知れたフィッツジェラルドの同名小説。近年では村上春樹の新訳も刊行されました。

ヒットの要因は、主役にディカプリオををすえたことに尽きると思います。みもふたもない言い方ですが。ロマンスに登場したのも「タイタニック」以来だったとか。やはりシリアスな役よりもナンパでハンサムで、どこか影がある役のほうがしっくりきます。
http://movies.yahoo.co.jp/interview/201306/interview_20130613001.html

本作品の中心となる舞台はギャツビー家で延々と繰り広げられるパーティなのですが、演出は「派手すぎる」という批評もあったほどきらびやか。ディカプリオ演じるギャツビーは、それにひけをとらない華やかさがあります。作品世界の本当の住人のようです。

レオ様主演『華麗なるギャツビー』が初登場1位!ゴージャス世界が女性客に大ウケ!


ディカプリオのみならず、周囲を固める配役もうまくはまっています。

ヒロインのデイジー役はキャリー・マリガン。
知的で落ち着いた感じの美人ですが、華やかさはありません。
一方のデイジーは裕福な家のお嬢さん。出身階級や家族を捨ててまで恋をまっとうするつもりはありません。どちらかというと他者に運命をゆだねるタイプ。

このデイジー役、ほかの役者をくってしまうほどの魅力と存在感があると物語が成立しません。
こんな「つまらない女」にほれ抜いて、そして彼女を振り向かせるためだけに夜な夜な豪華なパーティーを催す-。そんなギャツビーの特異さを描き出すために、デイジーはきれいだが退屈な良家のお嬢さんである必要があるのです。
キャリー・マリガンはそんな特徴のないヒロインを、きらびやかな作品世界に埋没させることもなく、うまく演じています。

そしてギャツビーの友人であり、物語の語り手であるニック役(トビー・マグワイア)も好演でした。
ニックはニューヨーク郊外の高級住宅地に引っ越したことから、隣人となったギャツビーとの交友が始まります。証券会社に勤める独身の29歳。原作の発表から90年近くたつというのに、現代のテレビドラマにも出てきそうなほど古びることのない設定です(戦争に従軍したという点を除いては)。

トビー・マグワイアもさわやかなハンサムではあるが、とびきりの美男というわけでもありません。その存在が、ギャツビーやデイジーといったあくが強く、一般的な金銭感覚とはかけ離れた登場人物たちをうまく中和。そして最後までギャツビーとの友情を貫きます(私生活でもディカプリオと親しいのだとか)。

それだけ見る側にとっても感情移入しやすい役どころ。
もしかしたら自分もニックのように大金持ちとお近づきに慣れるのではないか。裕福ではなくても困った友人を助けることができるのではないか。そんな夢も抱かせます。
トビー・マグワイアは、そんなどこにでもいそうな好青年ニックのイメージにぴったりでした。

主人公のギャツビー役はともかく、いわば特徴がないことが特徴のデイジーとニックというメインキャストにはまり役を得たこと。ただもすると「演出が派手なだけ」の作品に終わる可能性もあった本作品を引き締める結果になりました。








2014年1月7日火曜日

第六幕 最強のふたり 

「最強のふたり」は2011年公開のフランス映画。エリック・トレビノ、オリビエ・ナカシュ監督。
日本でも興行収入16億円と、フランス映画では異例のヒットとなりました。

主人公は富豪のフィリップ(フランソワ・クリュゼ)と、貧困層出身の黒人青年ドリス(オマール・シー)。フランスは日本以上の格差社会。出身階層によって居住環境から教育まで、なにもかもが異なるといわれています。

フィリップは有り余るほどのお金持ちですが、幸せとはいえません。事故によって頚椎損傷の重傷を負い、体の自由がまったくきかないのです。
一方のドリスも、幼い兄弟がいるというのに、定職にもありつくことができません。そして実の親さえ知らないのです。恵まれない境遇への苛立ちから、すぐに非行に走ってしまいます。

まったく住む世界の違う二人が出会ったのは、フィリップが介護者を募集したから。
フィリップに採用された介護人は、彼の気難しさを嫌って、すぐに去っていくのが常でした。運よく採用されたドリスですが、最初のうちは真面目に働こうとしません。彼が仕事につこうとしたのも、保護観察の一環だったのです。底抜けに陽気で、体力はあるものの、介護のイロハすら知りません。

二人の関係は月とスッポン。
これまでの介護人と同じように、いつ解雇されても不思議はありません。
ところが、そうはなりませんでした。

明るさだけがとりえのドリスは、フィリップの孤独に気づいたのです。
近寄ってくるのは、彼の財産目当ての人間ばかり。妻を亡くして、家族は年頃の娘だけ。
一方のフィリップも、ドリスのおかれた複雑な家庭環境を知ることになります。

「最強のふたり」の画像1

富はあるものの体の自由がきかないフィリップ。
体は頑丈でも富のないドリス。

教養はあっても、あるべき姿を求めて行動に自己規制をかけるフィリップ。
教育はなくとも本能のままに生きるドリス。

金目当ての取り巻きのせいで警戒心を深めるフィリップ。
財産になんて目もくれないドリス。

二人は互い欠落を埋めるように、雇用者と被雇用者という関係を超えて交友を深めます。
とはいえ、二人の友情は清らかなばかりではありません。ドリスはフィリップに、快楽の扉を押し広げます。夜遊び。ドラッグ。そして性欲。

フィリップは文通相手との交際に踏み切れないでいました。
亡き妻への思い。そして体の不自由な自分が受け入れられるのかという不安。
富と教養があるゆえ、恋する人にまで壁を築いてしまうのです。

ドリスにはそんな生き方は理解できません。
そして親友フィリップの壁を取り払ってやりたいと願います。そしてラスト。フィリップと文通相手が顔を合わせる段取りをすべて整えて、介護人としての役割を終えます。

これが映画のお話ではなく、実話であることが驚き。
冒頭、二人の乗ったスポーツカーが真夜中のパリを疾走するシーンが印象的。
障害をめぐる映画であっても、説教くさいところがなく、スピーディーに物語が展開していきます。