2014年9月30日火曜日

第二十三幕 ハンナ・アーレント

「ハンナ・アーレント」は2012年の伝記映画。ドイツ・ルクセンブルク・フランス合作。
マルガレーテ・フォントロッタ監督、バルバラ・スコヴァ主演。

主人公のアーレント(1906-1975年)はドイツ系ユダヤ人の政治思想家、哲学者。
第二次大戦中、ナチスの迫害を身をもって体験。夫のハインリヒ(アクセル・ミルベルク)とともに、ドイツからフランス、そしてアメリカへと亡命しました。その後はアメリカのシカゴ大学で教鞭をとるなどし、暴力や全体主義に関する著作を数多く残しています。

この映画では、アメリカの雑誌ニューヨーカーに、彼女が「イェルサレムのアイヒマン-悪の陳腐さについての報告」を寄稿した時期に焦点があてられています。

このアイヒマンとは、いかなる人物か。

アイヒマンはナチスドイツの元役人でした。
幾人ものユダヤ人を強制収容所へ送ったアイヒマンは、第二次大戦後、名前を偽り、アルゼンチンに潜伏。ところが、イスラエルの特殊機関モサドは彼ら戦争犯罪者の行方を追っていました。他国ではありながら、モサドは彼を拘束し、イスラエルの首都イェルサレムに移送。そして裁判にかけられることになりました。

アーレントは、アイヒマン裁判の傍聴記の寄稿を自ら売り込みます。
寄稿先は米国の雑誌「ニューヨーカー」でした。
被告のアイヒマンは、自らと自らの家族、同胞を不幸の淵に追い込んだ人物です。
アイヒマンがいかなる大悪党であったか。法廷で申し開きをするのか、あるいは罪を認めるのか。

ユダヤ人と全人類にとって世紀の裁判となるはずでした。



ところが、法廷のアイヒマンを目の前にして、アーレントは先入観を捨てざるをえませんでした。
アイヒマンは大悪党などではなかったのです。

彼は法廷で繰り返し主張します。
自分はナチスドイツの法と、役人としての職務に従っただけだと。「悪法も法なり」。彼は自分が法律や上司からの命令の善悪を判断できる立場にはなかった、というのです。

イスラエルの人々は、その弁明を真に受けません。
むしろ、アイヒマンは血も涙もない極悪人でなければならなかったのです。無数の同胞の命を奪ったのが、ただの小役人であってはならなかったのです。

また、アイヒマンは国家統合の象徴ともなる存在でもありえたのではないか。
中東の地に突如として誕生したイスラエルは、周囲を敵に囲まれ、争いを繰り返してきました。
いわば彼は、イスラエルとユダヤ民族の正当性を証明する生け贄、ともいえないでしょうか。

こうしてアイヒマンの裁判は、一種の政治ショーと化します。
罪状とは直接関係のない証人が次々と現れては、法廷でなじり、嘆くのです。

しかし、アーレントは演出やまやかしをすぐに見破ってしまいます。
アイヒマンは大悪党などではなく、上役からの命令を実行したに過ぎない。
子供がいじめを見てみぬふりをしたり、断れずに加担したりするように。

第二次大戦という特殊な状況ではなくとも、今後、第二、第三のアイヒマンが現れないなどと誰が言い切ることができるでしょうか。
アーレントはこのようなアイヒマン裁判の真実を、ニューヨーカー誌で指摘したのです。

これだけでも論争の種となるには十分すぎます。ところが、彼女の筆はとどまることを知りません。

彼女はユダヤ民族のタブーともいうべき問題にまで踏み込みます。
それは次のような問いです。
ユダヤ人の大量虐殺を可能にしたのは、民族内部に協力者がいたからではなかったか。

アーレントの論文に対して、ユダヤ人ばかりかアメリカの読者からも非難轟々。
しかしアーレントは、けして自説を曲げません。
ユダヤ人としてのアイデンティティよりも、思想家としての良心に従ったのです。

写真

非常によくできた伝記映画です。

しかしながら、いまひとつ腑に落ちない点も残りました。

ひとつは恩師であり不倫関係にあったとされるドイツの哲学者ハイデガーとのかかわり。
ハイデガーは、ナチスに協力的であったことで知られています。彼とアーレントの仲は戦争によって引き裂かれてしまいますが、大戦後も関係が続いていた、ともいわれています。
はたして彼の存在は「イスラエルのアイヒマン」執筆に影響を与えたのか。

もう一点は、ユダヤ民族にナチス協力者がいたというアーレントの指摘の根拠。
これは彼女の実体験に基づくものなのか。あるいは推論に過ぎないのか。

これらの点について、はっきり描かれることなく映画は結末を迎えます。
ドイツでは既知のことだからでしょうか。
それらは、映画を鑑賞する人それぞれの判断にゆだねられているのかもしれません。
「思考とは何か」ということを、作品上でハイデガーがアーレントに諭すように、。






2014年9月29日月曜日

第二十二幕 LIFE!

「LIFE!」は2013年公開のアメリカ映画。ベン・スティラー監督、主演のコメディ。タイトルとなっているLIFEとは、2007年に休刊になった米雑誌「Life」に由来します。

Lifeは1936年に写真週刊誌として産声を上げました。当時はインターネットはもちろんのこと、テレビのような動画メディアもどれほど普及していません。写真の持つ影響力は、現代とは比べようもありません。Lifeに寄稿したのは、ロバート・キャパ、土門拳ら時代を代表する写真家ばかりだったのです。

その後は時代と経営状況によって、休刊と復刊を繰り返すようになります。この映画でも取り上げられている先ほどの休刊は、インターネットの普及で紙の印刷メディアが読まれなくなったこととも影響しています。そうしてLifeはウェブ媒体に移行することになるのですが、この映画の主題となっているのは、まさに印刷版最終号の表紙写真をめぐるドラマです。



この映画の原題はThe secret life of Walter Mitty。

主人公のウォルターは、Lifeの写真のネガを管理しています。華やかな雑誌社にあっては、縁の下の力持ち。表に出ることもなく、一言でいえば、うだつの上がらない男です。

彼は美人同僚シェリル(クリステン・ウィグ)に思いを寄せるものの、会員制のマッチングサイト(日本風にいえば婚活サイト?)上でアプローチを試みるばかり。彼女からの反応は一切ありません。

さて、休刊の決まったLifeに新経営者テッド(アダム・スコット)たちがやってきました。
彼は経営合理化策を打ち出す一方、ウォルターに、最終号を飾る表紙写真の提出を求めます。テッドは社員の首切りにも着手していました。仕事に不手際があれば、会社に居場所がなくなるのは避けられません。ところがカメラマンのショーン(ショーン・ペン)が撮影したはずのネガがどこにもないのです。その前後のカットはあるのに、肝心の表紙用だけが抜け落ちていました。

その場では言い逃れでごまかしたものの、ウォルターはネガの提出を厳命されます。
こうしておとなしいウォルターはネガを探す旅に出ることになります。

なぜかって。「To see the world」がLifeのモットーだからです。
冗談ではなく、このLifeのモットーは映画のいたるところにちりばめられています。たとえば、映画の滑走路に、飛行機の座席の背もたれにさりげなく。


ショーンも「世界に目を向けよ」を地でいくカメラマンでした。
彼は常に世界中を撮影してまわっており、連絡先はおろか、所在すら誰にも分からないのです。

その手がかりはネガに残されていました。
ウォルターはニューヨークからグリーンランド、アイスランド、そしてアフガニスタンへと飛びます。ところが、いつでも後一歩のところで、ショーンとの接触を逃してしまうのです。

むなしく故郷に戻ってきたウォルター。
ところが母は思いがけないことを告げます。ショーンが家にやってきていたのです。
そうして再び旅立ったといいます。行き先はヒマラヤ。
長い長い旅の末、ウォルターはヒマラヤでついにショーンをつかまえます。
ところが驚いたことに、彼はネガを持っていませんでした。
それどころか、既にウォルターに渡したというのです。しかも、彼を驚かせるために、気づかれぬうちにウォルターの財布に忍ばせていました。ネガが入っているとはつゆ知らず、ウォルターは財布をゴミ箱に投げ捨ててしまっていました。

こうしてネガを提出できなかったウォルターは首を告げられます。
自分の首よりも、ウォルターは、ネガを紛失してしまったことが悔やまれてなりません。
長年、勤め続けてきた雑誌の最終号を飾ることができなかったからです。

ところがどっこい。ネガは思いがけない形ででてきます。
そして、そのネガに映されていたのは…。


ところで、近年、姿を消したメディアはLifeだけでありません。一時代を築いた多くの新聞や雑誌が続々と休刊、廃刊に追い込まれています。

それらのメディアを形作ってきたのは、記者やカメラマンの特ダネばかりではありません。
ウォルターのように、どちらかというと日の当たらない人たちの努力によって、版を重ねてきたのです。
映画「LIFE!」が人気を博したのも、日陰者だったウォルターが主役に躍り出るからでしょう。

またライフ誌のモットーである

“To see the world, things dangerous to come to, to see behind walls, draw closer, to find each other, and to feel. That is the purpose of life.”
を地で行く作品になっているのも、映画の作り手に雑誌への愛着があったからかもしれません。

2014年9月24日水曜日

第二十一幕 セント・オブ・ウーマン 夢の香り

セント・オブ・ウーマンは1992年のアメリカ映画。
盲目の退役軍人フランク(アル・パチーノ)と全寮制高校の生徒チャーリー(クリス・オドネル)の交流を描くヒューマンドラマ。この作品でパチーノはアカデミー賞の主演男優賞を受賞しています。

パチーノ演じるフランクは傲岸不遜。酸いも甘いも味わってきた大人です。
一方のチャーリーは、純粋で世間知らずの子供。

物語が動き出すのは、対照的な二人の出会いから。
チャーリーはアルバイトで、フランクの世話を頼まれます。
ところが、世話を受けるほうのフランクはとてつもなく気難しい人物でした。気に入らないことがあれば、すぐに怒鳴りだします。

チャーリーは全寮制名門高校の生徒ですが、家庭は貧しく、奨学金がたよりの苦学生です。
お金がないからといっても、こんな偏屈親父の相手はつとまりそうもありません。アルバイトを辞退しようしますが、そうこうしているうちにフランクは旅に出ると言い出します。行き先はニューヨーク。チャーリーは問答無用で同行を求められるのです。

困ったことになりました。
宿泊は名門ホテル。食事は高級レストラン。フランクは酒と女に囲まれて豪遊しようとご機嫌です。

ところがチャーリーは、高校を休まなければなりません。
そして一方で、今後の人生を左右しかねないトラブルにも見舞われていたのです。

彼は深夜の校内で、友人たちのいたずらを目撃してしまいます。彼らは闇に潜んで、嫌われ者の校長の愛車がペンキまみれになるわなを仕掛けていたのです。

そして翌朝。校長が駐車場に車を停めたところで、頭上に仕掛けられた風船からペンキが飛び出てきて、計画は成功。もちろん校長は激怒。犯人と目撃した生徒がいないか捜索を開始します。

運悪くチャーリーは校長に呼び出されてしまうのです。意地の悪い校長は条件を出します。
密告すればハーバードへ推薦。口を割らなければ退学だと。




チャーリーは自らの処遇がどうなるか気が気ではありません。早く学校に戻りたくて仕方がない。
一方のフランクは豪遊をやめようとはしません。退役軍人の恩給があるからといって、贅の限りを尽くそうとするフランクの行動は、チャーリーには到底理解できません。ところが、チャーリーはフランクのとんでもない計画を知ってしまうのです。

彼の途方もない豪遊は、人生に絶望した末での行動だったのです。
そう。彼はピストル自殺で人生に終止符を打つつもりでした。
一方のチャーリーは、学校に戻るどころではなくなってしまいました。必死でフランクを止めにかかります。元軍人と高校生の命がけのやり取り。

とんだ邪魔の入ったフランクはいきり立ちます。
しかも相手は人生も世の中のことも知らない青二才です。

「おれに人生が?人生がどこにある?あるのは暗闇だ!」
「おれに生きねばならない理由がひとつでもあったら言ってみろ!」

チャーリーも負けてはいません。

「あなたは僕がこれまでに会った誰よりも、タンゴとフェラーリの運転が上手だ!」

フランクはダンスホールで見初めた美女に、タンゴを踊ってみせたのです。そして街中では市場者のフェラーリを見事に操ってみせます。その腕前、堂々とした振る舞いは盲人のそれではありません。

それでも彼には信頼できる友人や家族は誰もいないのです。
久しぶりに訪れた実家ですら厄介者扱い。彼も彼で憎まれ口ばかりたたいてしまい喧嘩寸前。

自分があった誰よりも人生を知っているのに、孤独から抜け出すことができない。
チャーリーはそんなフランクをほうっておけなくなります。
一方のフランクも、チャーリーが抱えている悩みを知り、なんとか助けになろうとします。

ひょっとしたら、チャーリーが自棄を止めてくれるかもしれないと期待していたのでしょうか。
ただ、ニューヨークへの旅の同伴者がチャーリーのような純真な青年でなければ、こうした展開になってはいなかったのかもしれません。

まったく境遇の違う二人に芽生えた友情。
それだけでも十分に感動的ですが、本物の感動はラストにやってきます。

フランクとの旅から戻ったチャーリーに待っていたのは公開の懲罰委員会。
校長は全校生徒の前で、チャーリーに密告を促そうとします。

チャーリーは仲間を売りたくありません。しかし、さもなくば退学です。
そこに現れたのは誰あろうフランク。校長は退出を迫りますが、フランクはチャーリーの親代わりだと言い張るのです。

フランクは校長と生徒の目の前で演説をぶちます。

「私も何度か岐路に立った。どっちの道が正しい道かは判断できた。いつも判断できた。だが、その道を行かなかった。困難な道だからだ。チャーリーも岐路に直面した。そして彼は正しい道を選んだ。真の人間を形成する信念の道だ。彼の旅を続けさせてやろう。彼の未来は君ら委員の手中にある。価値ある未来だ。保証する。潰さず守ってやってくれ」

愛情を持って 校長は数々のエリートを輩出してきたこの学校の伝統を説いて聞かせますが、フランクはこう反論します。仲間を売るよう奨めるような学校に、責任感のあるリーダーが育てられるのか、と。

フランクの名演説に、生徒たちは総立ちになって拍手を浴びせます。

ちなみに映画の原作となっているのはイタリアのジョヴァンニ・アルピーノの小説。「闇と蜂蜜」という意味で、同国で映画化されています。

セント・オブ・ウーマンはそのリメーク。
ただ作中の設定すべてが巧妙にアメリカナイズされているので、そう指摘されないと容易には分かりません。

2014年9月21日日曜日

第二十幕 ウルフ・オブ・ウォールストリート

「ウルフ・オブ・ウォールストリート」は2013年のアメリカ映画。元証券ブローカー、ジョーダン・ベルフォートの実話が原作となっています。

監督は社会派マーティン・スコセッシ。主演はレオナルド・ディカプリオ。
金融界を舞台にした、オリバー・ストーン監督作品「ウォール街」と続編「ウォールストリート」と同様、ウルフ・オブ・ウォールストリートの主人公ジョーダンも違法行為によって暴利を稼ぎ、そして破滅を招きます。

一方で両作品の違いは、前者がゴードン・ゲッコーの強欲と狡猾さに焦点が絞られているのに対して、後者がドラッグとセックスの描写に満ち満ちていること、でしょうか。

会社で、飛行機で、車で。
ウルフ・オブ・ウォールストリートでは、ありとあらゆるところで、これでもかといった具合に乱痴気騒ぎが繰り広げられます。

もともとは金融業界で働くストレスをまぎらわすため、そうした行為に手を染めたはず。ところがしだいに、薬と性を得るために働くのか、境界がわからなくなってしまいます。
あまりに強い薬物を服用し続けた結果、体の自由がきかなくなるシーンが幾度も繰り広がれらるのですが、ディカプリオらの演技は本物の中毒者と見まがうほどです。



違法な証券取引によって富豪となったジョーダンは、クルーザー(もともとはココ・シャネルのため建造されたとか)を購入します。船に命名されたのは美しき再婚相手の名。成金趣味のなせる業なのか、薬物によって正常な判断力を失ったせいなのか。

さて作品の終盤、悪の限りを尽くして貯めたスイス銀行の預金に危機が訪れます。
現金の運び屋だった妻のおばが、急死してしまったのです。預金の名義はおばのまま。ジョーダンに贈与するという遺言は残されていませんでした。

その一報を受け取ったのはエーゲ海でのバカンス中。
ジョーダンはフランスのモナコまで航海するよう船長に命じます。モナコからスイスに飛んで遺言書を偽造するためでした。薬物で判断力を失っている彼は、「海がしける」という船長の反対を押し切って出発します。ところが、船長の予想通り海は大荒れとなり、船は転覆の危機を迎えます。ジョーダンら一行は、死を覚悟したもの、この期に及んでも薬物を手放しません。

ところがイタリア海軍特殊部隊のヘリに救われるのです。
沈み行く船をよそに、ジョーダンらは救助されたヘリの機上で再び乱痴気騒ぎをはじめます。まったく、どうしようもない人たちです。狂っているとしかいいようがありませんが、これは作り話ではなく、実話なのです。

ジョーダンの儲けの手口は、上昇の見込みのないペニー株を顧客に売りつけ、高い手数料を取るというものでした。証券詐欺や資金洗浄などによって逮捕された後、下された命令は1億1040万ドルの返済。ジョーダンは出所後、著作や講演活動によって収益を得たものの、それでも個人で返しきれる額ではありません。

しかしながら、これだけの罪を犯しているというのに、このジョーダン、どこか憎めません。

なぜなのか。
それは彼らが常人では到底できない欲望を尽くしてきた、からではないでしょうか。
そして欲望の限りを尽くしたなれの果ても示してくれたのです。

神様が彼に悪運を授けたのもそのためかもしれません。

2014年9月20日土曜日

第十九幕 オリバー・ツイスト

「オリバー・ツイスト」は2005年のイギリス映画。ロマン・ポランスキー監督。
原作はチャールズ・ディケンズの長編小説。

舞台は産業革命期のイギリス。
産業革命は生産手段のある資本家には富をもたらした半面、持たざる者は自らの労働力を売るしかありません。労働者は仕事を求めて都市へと集まってきます。主人公のオリバー・ツイストもその典型だったのでしょう。

オリバー少年は孤児。孤児院で虐待を受けたのが原因でロンドンへ向かいます。ロンドンへは食うや食わずの逃避行。もっともロンドンにたどり着いたところで、仕事と食にありつける保障はないのです。

飢えた果てに、雑踏にへたり込むオリバー。あわれな彼を拾ったのが盗賊団でした。
その頭領は奇怪な老人でした。名はフェイギン。ディケンズの原作ではユダヤ人という設定です。
フェイギンは、オリバーのように飢えた少年たちを拾ってきては、盗みをさせていたのです。



少年たちは生きるために悪事を働きます。指示をするのはフェイギン。この老人に背くことは死を意味しました。
それでもオリバーは悪に染まりません。孤児院で叩き込まれた道徳と礼儀のためでしょうか。

ところが、オリバーは警察につかまってしまいます。
仲間の少年たちとともに本屋ですりを働こうとしたときのことでした。オリバーは法廷に引き出されますが、本屋の主人がオリバーが犯人でないことを証言します。

無罪となったオリバー。この少年を引き取ったのが、ブラウンローという裕福な紳士。
ブラウンローはオリバーを保護し、オリバーも幸せに暮らします。ところが、この幸福も長くは続きません。
オリバーがつかいに出たときでした。フェイギンの一味が再びさらっていったのです。

フェイギン一味に運命をもてあそばれ続けるオリバー。
フェイギンの隠れ家から脱走を図るものの、あえなく捕まり、屋根裏部屋に閉じ込められます。
その陰で、フェイギンの一味、ビル・サイクスという男はブラウンロー邸への強盗を企てていたのです。

オリバーは案内役として引き出されます。もちろん本意ではありません。
そして決行の夜。物音に気づいたブラウンローはオリバーの姿を認めます。助けを求めて叫ぶオリバー。このときブラウンローがあわてて発砲したために、オリバーは重傷を負います。オリバーはフェイギンの一味に抱えられて隠れ家に戻りますが、フェイギンとビルはオリバーの殺害を決意します。

これを見かねたのがビルの妻ナンシーでした。ナンシーは隠れ家を抜け出し、ブラウンローと密会。オリバーが捕らわれていることを告げます。
この告げ口を知ってビルは逆上します。ナンシーは殴殺。オリバー誘拐とナンシー殺害は新聞をにぎわす大ニュースとなるのです。

警察によるおおとりものの末、ビルは死に、フェイギンはついに刑務所送りになります。
あわれな少年オリバーをめぐるはらはらドキドキの展開も、ここまでは予想の範囲。

しかし、死刑となったフェイギンの面会に訪れたオリバーは、予想外の行動をとります。
大悪党フェイギンへの感謝を述べるのです。死刑におびえていたフェイギンに笑顔が戻ります。
これだけひどい目に合わされたのだから、恨み節をぶつけてもよさそうなものです。

心温まるというよりも、現代人としては違和感を覚えてしまいます。
それでも、当時はいつ飢えて死ぬかわからない時代。庶民にとっては、一日一日を生きるのに精一杯。たとえどんな悪党でも、フェイギンが与えてくれた一宿一晩の恩を忘れられなかったのでしょうか。
人々の価値観は善か悪かよりも、まず生か死かに置かれていたのかもしれません。

いたいけなオリバー少年は、自分の意思で生きるというより、フェイギンやブラウンローら大人たちの間で運命をもてあそばれる存在です。その点は、同じくポランスキー監督作品の「戦場のピアニスト」の主人公、シュピルマンに通じるところがあります。

だからこそ、フェイギンの巨悪ぶり、現代人の価値観を超えた存在、そして産業革命期の過酷さが浮き彫りにされるのではないでしょうか。 

2014年9月16日火曜日

第十八幕 ヒアアフター

「ヒア アフター」は2010年のアメリカ映画。クリント・イーストウッド監督。アカデミー賞視覚効果賞。
冒頭で展開される津波のシーンは、映画とは思えぬ迫力。それもそのはずで、スティーブン・スピルバーグが製作総指揮としてスタッフに加わっているのですから。

日本では東日本大震災の被災者感情に配慮して、公開開始1ヶ月足らずで上映打ち切りになったのも記憶に新しいところかもしれません。

とはいえ、ヒア アフターが優れているのは単なる特撮ものとしてだけではありません。
現実世界とスピリチュアルな非現実的世界が交錯するストーリーに妙があります。

ここでいう「スピリチュアル」というのも、心霊現象など日常生活とまったく縁のない世界、でもありません。
ヒア アフターで描かれているのは、臨死体験と死者との交信。

臨死体験にしろ、チャネリングにしろ、人間心理が作り出した幻想なのかもしれません。
ただ、この映画でリアリティをもたらしているのは、スピリチュアルな世界を体験したゆえの孤独が描かれているからではないでしょうか。

マット・デイモン演じる霊能力者の主人公のジョージ、津波から九死に一生を得たことで臨死体験をするフランスの女性ジャーナリスト・マリー、そして事故で双子の兄を失った少年マーカス。それぞれが誰からも理解されない孤独と悲しみを抱えて生きています。

霊能力のような非科学的な才能があれば、はたして幸せに感じるのでしょうか。
少なくともジョージは、自らの才能を忌み嫌うことになります。実の兄が、弟の才能をビジネスに利用しようとするからです。もともと文学青年である彼は、霊能力など捨て去ってしまって、静かな暮らしを願います。そして兄には黙って、故郷からイギリス・ロンドンへと旅立ちます。


一方のマリーは、自らの臨死体験をジャーナリストとして発表したいと願います。表現欲求というよりも、自らの体験を理解してほしかったからかもしれません。ところが、彼女の要求は受け入れられるどころか、周囲を困惑させてしまいます。はたして、そのような非科学的な体験がテレビの視聴者に受け入れられるのか。周囲からの信用を失ったマリーは、ついには干されてしまいます。そうして彼女も、出版のつてを求めてロンドンへと渡るのです。

そしてマーカス少年。彼には特殊な才能も体験もありません。
父親はおらず、母親も薬物中毒から抜け出すことができません。保護観察?のため子どもから引き離されてしまいます。少年は里親になじむことができず、心のよりどころであった双子の兄を交通事故で失ってしまうのです。
彼は幼くしてぬぐいがたい孤独を抱えることになります。生育環境も恵まれていません。ただ彼の境遇が特殊だとも言い切れないのではないでしょうか。薬物、貧困、交通事故。われわれはこれらの危険や不幸と常に隣り合わせです。この少年はわれわれ一般人を象徴する存在なのかもしれません。

まったく接点のなかった3人を引き合わせる役割を果たすのもマーカスでした。
天国の兄との交信を望んだ彼はジョージを探し当てます。霊能力を捨て去ろうとしていたジョージは困惑しますが、彼の兄への愛情にほだされてチャネリングを試みます。そしてブックフェアでロンドンを訪れていたマリーとジョージも邂逅を果たすのです。

社会から切り離されかけた3人の出会いは、静かな感動を呼び起こします。
また作品にリアリティをもたらす演出も見事です。冒頭の津波、そしてマーカスが遭遇する地下鉄テロ。どの出来事かは明示されていませんが、現実と非現実をたくみに交差させています。

第十七幕 マネーボール

「マネー・ボール」は米大リーグ・オークランドアスレチックスとゼネラル・マネージャー(GM)、ビリー・ビーンの奮闘を描いた映画。ブラッド・ピット主演。

マネー・ボールの原作は、同名のノンフィクション。全米でベストセラーとなり、邦訳も人気を集めました。

なぜか。
野球を統計のスポーツとしてとらえた点が、ビジネスマンにも支持されたのでしょう。
アスレチックスには有名選手を獲得できる潤沢な資金がありません。いわば中小企業です。ならば、お金をかけずにチームを強化しなければなりません。そこで採用したのが「セイバーメトりクス」という理論。ウィキペディアの定義によると

過去の野球に関する膨大なデータの回帰分析から「得点期待値」というものを設定して、これを上げるための要素を持つ選手を良い選手とする。
これだけではチンプンカンプン。そこで本書で紹介されている戦略の一例をご紹介します。
たとえば、アスレチックスは「選球眼」のよい選手を優先的に獲得しています。これは安打や本塁打が出なくとも、3つの塁が埋まればそれだけ得点期待値が高まるからです。
一方で、犠打は相手チームにアウトを進呈することになるので重視されません。同じように盗塁も走者が刺殺される可能性があるので評価されません。
アスレチックスが獲得するのは、他球団が見向きもしない選手ばかり。
重要なのは選球眼のよさであって、体格や走力は二の次。そういった選手はサラリーが安く抑えられます。資金力のないアスレチックスにとっては理にかなった戦略なのです。

もう一点、マネー・ボールを魅力的にしているのがビーンGMの破天荒さ。
統計を駆使してアスレチックスを率いてきたとはいえ、彼の人間像は緻密さとはかけ離れています。
映画で印象的なのが「Is loosing fun?」とロッカールームで選手に訴えかけるシーン。この後、ビーンGMは怒りにまかせてバットを放り投げます。それだけならまだしも、試合に負けた腹立ちから、窓ガラスに向かって物を投げつけるシーンも。

ビーンはもともと、将来を嘱望された選手でした。ところが大成しませんでした。
その切れやすい、むらっけのある性格が災いしたのでした。
引退後に球団のフロントに移ってからも、彼はことあるごとに怒りをぶちまけます。


彼は自らの意見や感情をオブラートに包むようなことはしません。
見込みのない選手には、はっきりと役立たずの烙印を焼き付けます。一方で、獲得した選手たちには、その利用価値をストレートに説明します。

アスレチックスは選球眼に優れた選手を獲得するだけでなく、ベテラン選手も多く獲得しています。
彼らベテランは、好条件で契約してくれる球団はなかなかありません。選手としての寿命が長くないからです。

一方でアスレチックスにとっては逆にチャンス。実績のある選手を格安の年棒で抱えることができるのです。かつてはヤンキースを退団した松井秀喜も、一年契約でアスレチックスに入団したことがあります。映画の中でビーンは、獲得したベテラン選手、元ブレーブスのデービッド・ジャスティスにこう告げます。
最後の一滴をしぼりとる、と。

ビーンにとって選手は商品でしかありません。派手なホームランはなくても、四球さえ選べればいい。また、安く獲得した選手が活躍すれば、今度は高い値段で他球団に売りつけます。
監督すら将棋の駒、どころかお飾りと同じです。原作ではGMの指示に背いた監督を解任する場面が描かれています。

それでも、ビーンとアスレチックスからは不思議とビジネスライクでドライな感じを受けません。
きっと彼が挫折を経験してきたからでしょう。

実際問題、貧乏球団のアスレチックスは、常識的な戦術では金満球団に太刀打ちできません。一方で、どん底から這い上がろうとする選手に私情を挟んだところで、なんの助けにもなりません。
ビーンが経済合理性にしたがってチームの強化を進めるのも、ほかに選択肢がないからです。

映画のラストで、ビーンはレッドソックスから誘い受けます。
名門レッドソックスも、最近はセイバーメトりクスを取り入れているとか。資金力ではアスレチックスを大きくしのいでおり、移籍すれば望むとおりの補強戦術を駆使できたことでしょう。
しかし、彼は誘いを断り、貧乏球団アスレチックスのGM職にとどまるのです。

知恵と情熱で、強者に勝つ。それが彼の生き方なのかもしれません。
そんなビーンの反骨心が、マネー・ボールに深みを与えているのでしょう。

2014年9月10日水曜日

第十六幕 ミッドナイト・イン・パリ

ミッドナイト・イン・パリ(2011年)は、ウッディ・アレン監督のコメディ映画。
アカデミー賞・脚本賞受賞。 

舞台はパリ。
作家志望の主人公ギルは、婚約者イネスとその両親とフランス旅行に出かけます。
ところが結婚を控えているというのに、ギルとイネスとの趣味や価値観の違いがパリで浮き彫りになってしまいます。

二人は旅行先で、たまたま知人のポール夫婦と出会います。
イネスはポールを気に入っているものの、ギルには彼のインテリぶったところが鼻持ちなりません。
イネスとの仲がギクシャクし始めたギルは、夜のパリに出かけます。
街角で酔いつぶれていると、目の前には一台のクラッシクカーが。
「乗れよ」。わけもわからず車に乗り込み、連れられた先はパーティーの会場。 そこに集まっていたのは、なじみのある顔ばかり。フィッツジェラルド、ヘミングウェイ、ピカソ…。

それもそのはず、「失われた世代」を代表する文人ばかりだったのです。

ギルはクラシックカーに乗って、1920年代のパリにタイムスリップしたのでした。 
作家志望のギルにとって、ヘミングウェイやフィッツジェラルドは雲の上の存在です。彼らが集い、議論を戦わせる姿にみせられて、ギルは宿泊先から夜な夜な夜の街に出かけていきます。 

デートの誘いを断られ続けるイネスは、婚約者の行動を不信がります。

ところが、「失われた世代」のとりこになってしまったギルを止めることはできません。
小説家志望の彼は、ヘミングウェイらに作品を批評してもらいたかったのです。 

そして彼は、ピカソの愛人アドリアナと恋におちます。
かれんなヒロイン、アドリアナ。でも、ピカソを慕っているというのに、彼に振り回し続けられています。

ミッドナイト・イン・パリの映画評論・批評

ギルは親身になって彼女の相談に乗ります。 
ところが1920年代の夢の世界でデートをしていた二人は、ひょんなことから、さらに過去にタイプスリップしてしまうのです。

そこでは、さらに古い時代の文人たちが集っていました。
これぞ「ゴールデンエイジ」とアドリアナは目を輝かせ、過去の世界から戻るのを拒みます。 

一方のギルは、そこで夢からさめてしまいます。
結局、彼は古のパリにしあこがれていただけだったのです。

マッチョなヘミングウェイ、奔放なピカソ…。
失われた世代の文人たちは、さもありなん、といった行動や言動を繰り広げます。

激論を交わし、ときには取っ組み合いのけんかもします。
それに比べれば、ギルは自信なさげで、ひ弱にうつります。なんの実績もない小説家の卵が主人公だからこそ、このコメディ映画が成り立つのですが。

失われた世代は、世界の文学、芸術に今も大きな影響を及ぼし続けています。
そんな彼らの間に現代人が迷い込んだらどうなるか。この作品が面白いのは、ウッディ・アレンの発想力のゆえなのでしょう。

2014年9月7日日曜日

第十五幕 世界にひとつのプレイブック

「世界にひとつのプレイブック」は、ブラッドレイ・クーパー主演。
ヒロインのジェニファー・ローレンスはアカデミー賞主演女優賞を獲得しています。

互いに心の傷を負った主人公パットとヒロインのティファニーが心を通わせていくというストーリー。
その心の傷というのが、いかにも現代的でアメリカ的。主人公は妻の浮気現場を目撃してしまったために、トラウマを抱えています。一度、きれてしまうと、だれかれと見境なく暴力を振るったり、破壊衝動に駆られたりと、家族も手に負えないほど。

さらに困ったことには、元妻に近づかないという条件付きで出所してきたにも かかわらず、執拗に妻との復縁を図ろうとしているのです。元妻への愛情のゆえの行動というより、一種の偏執狂。

一方のヒロインも、夫を事故で亡くしたことで心に深い傷を負いました。
ところが、その傷を性行為で埋めようとするのです。 かれんな容姿と裏腹に、深刻なセックス依存に陥ってしまいます。一度関係を持っただけの男たちが、次々とやってくる。そしてセックス依存症から抜け出せないという悪循環。


その二人がトラウマを癒そうとはじめたのがダンスでした。
乗り気ではなかったパットをティファニーが強引に誘うのですが、そのコンテストの結果が賭けの対象となってしまい、ギャンブル好きのパットの父(ロバート・デニーロ)までも巻き込んでの大騒ぎになってしまいます。

まったくの素人の二人がダンスに励む様子は、一見ほほえましく映ります。
でも、この二人、いつきれてしまうかわかりません。

予定調和的なストーリーなら、めきめきと上達して優勝を飾るところなのでしょうが、二人とも下手なまま。
もっとも、賭けの対象としては、大方の予想を裏切る点数をあげます。
素人ペアのダンスが、ハラハラドキドキを誘うのは、二人がいつきれてしまうかわからないからです。

かなり「いたい」映画ですが、 ストレス社会に暮らしていれば、いつ彼らと同じような境遇に陥るかわかりません。
ダンスコンテストを終えて、互いの感情を確かめ合う二人。
トラウマと破壊衝動を抱えた者同士が結ばれるという新しいタイプのコメディといえるのではないでしょうか。